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2016年09月17日10:21

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猪木とビンス(361)

84年7月8日は日曜日の後楽園ホール大会、この日は新日本プロレスへの売り興行。

日曜日の後楽園ホールと言えば全日本プロレスの定番でしたが毎回、満員、超満員を記録しており、お客さんの集め易さでは日曜日は強く、新日本興行設立以来、3月4日、5月27日と今回で3シリーズ連続の開催となりました。

試合前に、新日本プロレスから81年に崩壊した国際プロレスの元社長である吉原功氏の顧問就任が発表されています。

吉原は団体が崩壊した後、国際の残務整理を行い北浦和にあった自宅等資産を処分し、負債を処理した後、生保の外交員をやっていたと聞きましたがテレビ朝日から出向していた早稲田大学レスリング部の先輩である永里高平専務の口利きで顧問に就任しました。

吉原に先に声かけをしたのはUWFの浦田昇社長でした。ラッシャー木村が所属選手にいたこともあり、外国人ブッカーとして起用しようと考えていたのです。

カルガリーにルートを持ち、バーン・ガニアのAWAにも顔が効く。資金さえあればある程度の大物を呼べる力は持っていました。

吉原自身も、冷却期間があったこともあり、またプロレスの仕事に復帰出来ることに喜びを感じていたそうです。

しかし、それを察知した新日本の永里専務は「吉原をUWFに行かせるな」とこれを阻止にかかりました。

というのも新日本とWWFの関係が微妙なものになって来ており、WWF以外の外国人ルートを確保する必要がありました。

81年8月9日、北海道羅臼町民グラウンド大会を最後に15年に亘る団体活動を停止した国際プロレスの吉原社長は永里専務を通じて所属選手を新日本に預けることで話を進めていました。

10月8日、蔵前国技館での全面対抗戦が終わったら国際の選手は新日本に外敵として上がることになっていましたが、猪木嫌いとして知られるマイティ井上が吉原の方針に反発して菅原伸義(アポロ)、米村天心(入団せず)、冬木弘道を連れて全日本入り。さらに阿修羅・原も別ルートで全日本へ。

後から判明した話では吉原の選手全員を預ける、という話に猪木は「全員なんか、要らない!」と反対し、水面下でR木村、アニマル浜口、寺西勇の3人だけに「10月8日の蔵前が終わった後も継続して新日本に上がる旨の契約」を個別で交わしていた、というのです。

井上他の反乱は猪木の動きを知ったからであり、給料未払で会社を倒産させた吉原社長の人望のなさだけではなく、選手達が生活していく為の選択でした。

浦田社長からの誘いは吉原にとっては大変有難い話でしたが、やはりそこは縦社会。永里専務の意向を汲み取った吉原は新日本の顧問になることを選択しました。

吉原はカルガリー在住のかつての「北米支部長」大剛鉄之介に新日本のブッカーをやるように指示を出しました。

このことが、カルガリーで新日本の若手の面倒を見つつ、新日本にも外国人を送っていたミスター・ヒト(安達勝治)と新日本の決定的亀裂要因となりました。

ヒトと大剛の不仲は有名な話でした。「カルガリーに日本人のブッカーは2人も要らない。」ヒトの怒りの感情は頂点に達しやがて爆発することに…。

後楽園大会のメインは猪木、藤波組vsデビッド・シュルツ、リック・オリバー組で藤波がオリバーをバックドロップから体固め。

長州は3日前に藤波のWWFインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦したばかりのカネックを僅か3分42秒、リキラリアットでねじ伏せて鬱憤晴らし。

セミ前のザ・コブラ、星野勘太郎組vsダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミス組はキッドが星野をツームストン・パイルドライバーからダイビング・ヘッドバットで破っています。
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