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2012年07月05日02:25

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現代フランス・ナイーブ派絵画展/常葉美術館

7/3(火)の朝、ほんの僅かな雨が降り始める風情の中、菊川の常葉美術館で開かれている「現代フランス・ナイーブ派絵画展」に出掛けた。会期5/26〜7/8。
家を出て、バス停に向かう間では、傘をさす事もなかった。

常葉美術館は、JR浜松駅から東海道線を東へ7駅の菊川駅から、歩いて1.5km程の所にある。
常葉学園菊川の中・高等学校敷地内にある美術館で、私はこれ迄に「アンドリュー・ワイエス水彩・素描展」等で行った事があるが、いつも車で行っているので、電車で行ったのはこれが初めてである。


展示されているのは、タイトルの通りで難しい絵はひとつもない。
絵は、朴訥で純粋で、悩むような事はないのだが、改めて言葉で説明しようとすると、筆が進まない。
一体「ナイーブ派(素朴派)」とは何か?
似た絵を指す言葉に「プリミティブ・アート」「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」「エイブル・アート」等々がある。
たまたま浜松市美術館では「アール・ブリュット展」が、この6/29〜8/12の間、開催されている。

こうした言葉が整理し切れずに乱立する中で、各展覧会は、それなりに意味の特化をしようとしている。
常葉美術館は、まず「現代フランス」とタイトルに打ち出している。(巡回企画なので、常葉が独自でコピーを作ったのではないが。)
更には「1984年にパリに設立されたフランス・ナイーブ派協会に属する現代の画家29名の作品」と明確な限定を図っている。

少し時代を遡れば、誰でも知っているアンリ・ルソー(1844-1910)という日曜画家の存在があり、彼を発見して世に知らしめた、ヴィルヘルム・ウーデ(1874-1947)という美術蒐集家・批評家がいる。ウーデがいなければ、素朴派ルソーを、我々は知る事もなかっただろう。

ウーデについては、マルタン・プロヴォストが作った映画『セラフィーヌの庭』で、セラフィーヌ・ルイ(1864-1942)という無名の女性画家と伴に描かれていた。
<参>http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1634968941&owner_id=3341406
ここでも書いているが、ウーデが自著『税官吏、アンリ・ルソー』でルソーを世に紹介したのが1911年、セラフィーヌと出会うのが1912年である。

「ナイーブ・アート」の説明として、・・・正式な絵画教育を受けず、職業は別に持ちながら、自分の楽しみの為にのみ絵を描いた。その絵は、伝統的な絵画理念や理論、遠近法や陰影法、解剖学等に囚われる事なく、純真で、素朴・・・と、これらの言葉の殆どは今展のチラシから引っ張ってきたものだが、このように書き足していくと、正直言って、だんだんその実態が見えなくなる思いがするのは、私だけではないだろう。

ルソーとは違い、セラフィーヌには、精神を病んでいたという側面もある。
彼女が直接描き付けた板には、花や葉がぎっしりと埋め尽くされている、まるで隙間を怖がるかのように。他には人物も何も描かれず、植物だけであるが、かと言って、よくある「花瓶に活けられた静物画」とは言いがたい。花瓶は何処にも存在せず、ただ、画面中を花と葉が覆い尽くしている。そして、その花も葉も、細かい部分迄細密に描き込まれているが、しかし、自然界にはこんな蕊や葉脈を持った植物はありそうもない。彼女の頭の中だけにある花と葉、それを板に写していったのだろう。

ここ迄書けば少し私の悩みのイメージも判るだろうか。
ルソーとセラフィーヌは、同じ時代の素朴派でも甚だ違うのである。
しかし、前掲urlの日記では、私は、映画の方の理解を急ぐ為、ルソーとセラフィーヌを分ける事に積極的でない。

ウーデは世の「素朴派」という名称を嫌って「モダン・プリミティブ」と呼ばせたかったようだ。
「プリミティブ・アート」というと、原始・未開美術という意味で理解される場合が多い為、それと仕訳ける為にモダンという形容詞を付けた訳である。
しかし、それでも良く表現できているとは言えない。

混乱は増していくが、さて、先程も述べた通り、この展覧会について述べるだけなら、割合単純で、セラフィーヌ風の絵は一切含まれていない。「フランス・ナイーブ派協会」にセラフィーヌは所属していないからだ。
大らかに、ルソー風の絵、と割り切っていいかもしれない。
しかし、「フランス・ナイーブ派」に入れるかどうか、の判断をしている人達がいる筈で、そこには判断基準がある筈なのだが、その基準を、展覧会は何故か詳らかにしていない。

また、「ルソー風」と言っても、技術が稚拙でそう見える場合と、技術はあるのだが敢えてそう描いている人(ルシアン・ヴィエイヤールの『モンサンミッシェル』等→写真1)がいるだろう。
また、見たままを描いているつもりで結果としてこうなってしまっている人と、はなから外界でなく、頭の中に存在するイメージを描いている場合(フィリップ・ルクール『村の2匹の鹿』等→写真2)がある。

今展では、前述したように「現代フランス・ナイーブ派」29の作家の85点が展示されているが、「ルソー風」と一括しても、それぞれはやはりかなり違っている。
ルソーの極く1部の絵(例えば『戦争』→写真3。今回は来ていない。)がシュルレアリスムに分類されてもおかしくないように、フランシーヌ・ジュノーの『公園で休む婦人』等からは、強くシュルレアリスムの匂いを嗅ぎつける。
残念ながら、図像データが見つからないので添付できないのだが、白樺の木立が点々と生える公園のベンチに、向こう向きで背中をこちらに見せて座っている貴婦人がいる。もう少し遠くにも、全く同じ姿勢の婦人がいる。それだけである。白樺の類型的な模様が、絵にリズムを与えている。婦人が裸ならば、ベルギーのシュルレアリスト、ポール・デルポー(1897-1994)との親近性を感じさせもする。

日曜画家、素人画家という事から、作家の名は知られないものばかりで、会場の作家のキャプションも至って簡単、殆ど1行か2行である。
作家の側面から理解を深めるという手法は、今回の展覧会の場合全く通用しない。

浜松市美術館の「アール・ブリュット展」も観に行くつもりでいるが、こちらの言葉は、20世紀フランスの画家ジャン・デュビュッフェ(1901-85)が提唱したもので、「生(き)の芸術」と訳される。
やや詳しく言うと「精神病患者や霊的幻視者などの社会から隔絶された人びとの作品を積極的に評価するする為に用いられた」(現代美術用語辞典ver.2.0β版より)とあり、セラフィーヌの絵もこちらの分類の方が居心地がいいのかもしれないけれども、多分、また現場で悩みながら観る事になるのだろうと、今から想像するのである。


帰る頃には、雨は大分激しくなっていて、駅迄遠回りをした所為で大分靴が濡れた。


<付記>特別出品として、アンリ・ルソーが下絵を描いて、それをタピストリーにしたものが2枚加えられている。
 
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