トニーパーソンズの本の感想のつづき奇跡講座の学習者がこの本をよむと(ほかのノンデュアリティの本もですが)混乱する理由はおそらく次の点にあるとおもいますそれは奇跡講座が伝えている形而上的なエゴの力動についてノンデュアリティスピーカーは、ほぼ無
まさにおこることしかおこらない好奇心も癒しの衝動もというのが奇跡講座とノンデュアリティを経験したNACの現在のコメント表現になっていますただし最終的な経験は真の知覚(平安の延長)であるためノンデュアリティとは表現が違ってきますねそれから奇跡
トニーパーソンズは本のなかで自由落下のなかであらゆることが起きているとありますこの基盤への自由落下とは癒しのことだとおもいますがほんとうはこれは自我が癒されないかぎり潜在意識レベルの自我への自由落下でしかありませんだから探究者については基盤
ノンデュアリティと奇跡講座の共通点今まで真の知覚(平安に癒されたマインド、意識、知覚)が奇跡講座の教えであると流行のノンデュアリティとのちがいを述べてきました今回はノンデュアリティと奇跡講座の共通点についてとりあげます例としてトニーパーソン
(補足)聖霊とは、在るがままからのエネルギーしかなかったという記憶である聖霊は心と心がしたすべてのエネルギー(投影)を回収して癒して一緒に神に帰還できる用意をする(誰も何もポイ捨てとはならない。何も分離していないからである)そもそも分離した
自我という空想は新しいもの(あらためて作られた努力というエネルギー)だから自我が求めるものは新しいものであるしかし世に新しきものはなにもなしであるもっと、もっとも何の意味もない空想、つまり、欲(ワクワク)は無意味となるあるがままからのエネル
流行のノンデュアリティのおしえの特徴をかんたんにいいますとなんでもないものから情熱がおこりすべてが起こっているようにみえるそれはすばらしい(どこが? 笑)という主張だといえます奇跡講座の学習はそのようなものではありません流行のノンデュアリテ
意識とは閉じられたスクリーンのようなものですそれは私が努力する私は努力しないといったこととは関係なくありますここでいう私とは自我(の反映)のことですつまり自律しているという観念であり意識上にあらわれているものですつまり「自分から」コントロー
心が死にかけているノンデュアリティ難民についてフランスオリンピックへの赦しさて今回のコメントは純粋意識という言葉をつかいますこの純粋意識というのは努力のないキリスト意識(絶対意識)を意味しますちなみに努力のある意識とは個のあとの閉じられたス
すべて純粋意識であるそれ以外のものはないこれが世界の癒し(精神統一)であるそれ(努力なしの純粋意識)以外のなにかがあるという空想が神とはなにか違うものがあるかのような空想であるがそれは純粋意識の空想でしかなく夢のおわりであるこのすべてが勝手
いつでも安心(自然の記憶)とはすでにありわたしとかわたしではないといったような自意識ではない純粋な意識がすでにあるということですねときおり日中でさえ世界を忘れることがあるのはわかりやすい例ですスピリチュアルに関心のない人は瞬間的なうたた寝や
よく聖典で神の御足元にひざまずきなさいとかグルの御足元を礼拝しなさいという言葉があるそれは頭を礼拝しなさいとはいっていないこの真の意味はグラウンディングしなさいという意味でありそれは存在の恩寵なのである(それは起こるときに起こるのである)
避けられない真実があるのだそれは意識(気づき)はまだ悟りそのものではないということなぜなら意識は探究をはじめるからである正確にいえば意識よりもまえにあるわたし(一般的スピリチュアルにおいては自我エネルギーという)が探究したがっているからであ
今回は奇跡講座じたいがどのような、世界観をもっているかは取り扱わず神の使者の本と一般的なスピリチュアルの世界観を比較してみたい神の使者の本では抽象から、わたし、意識、自我、身体や脳という知覚の順となっているしかし一般的なスピリチュアルでは抽
補足映画ちはやふる 結び のヒロインと同じ姓である綾瀬はるかさんはNHK大河ドラマでは「八重の桜」のヒロインを演じていました(この作品もまたオープニングテーマ曲は坂本龍一さんです)八重は明治維新のとき戊辰戦争で会津藩で幕府側でした。
つづき午前の送迎の仕事がおわり、今日もいつもの千早川(ちはやがわ)のお客様を、白い塔の街(ベスレヘム姉妹都市となっている富田林市)に透析の送迎をさきほどいたしました。そのお客様へのご自宅に車でむかう途中、不思議な奇跡がおきました運転
フランスオリンピック宿命の映画(フランスが舞台 平安の塔)https://youtu.be/Y0nwMmtOpRw(出演俳優)中山美穂(穂)向井理(1977年設立ホリエージェンシーの所属俳優 Wikipediaより)綾野剛(綾)桐谷美玲(桐)これらの俳優が演じているのは偶
東京オリンピックのまえにコロナがあらわれたようにフランスオリンピックのまえにウクライナ戦争があらわれるそれは光と闇の二元性であり偶然ではないそれによって偽りの光があばかれ世界は進化でも遊び(リーラ)でもなく癒されなければならないものでしかな
インドの聖者やノンデュアリティのスピーカーがこの世界のことをしばしば存在の遊び(リーラ)であるとのべているしかしそうのべることは誤りである癒された心がまだ起きているシナリオを癒しのなかでみているからといってシナリオを 存在の遊び(愛の表現)
ふつうであること私はそれを否定するそして私はいない、とか、神秘を追求しているこれが滑稽さなのであるエゴりんの^_^平安(ふつう)さのなかで認識がありそれさえきえさることがあるどうしてかというと燃え尽きるマインドが認識をのこしているから
存在(リアル)も夢も自由意志、自由意思はない在りて在るものだけであり夢も、起きることしか起こらない(遊び、癒し)神ですらほんとうは自由意志などないのだこれが完全な宿命論であるエゴとしての計画や聖霊の計画でさえもほんとうは自由意思は幻想である
かんたん悟り説明自然オートマチックとは歪曲衝動(好奇心つまりマインド そして 自我)と奇跡衝動(癒しつまりゆるし そして平安)が実相から夢のようにオートマチックでおきているという意味である
フランスオリンピック(ノンデュアリティのための)メッセージノンデュアリティの説明では海と波のたとえを用いることがあるしかし正確には海も波も自我の力動である深海は休息している(熟睡していると表現される場合もある)エゴである深海の下にある、大地
認識は努力なく すでに 物と心に分かれていない(心をすて物自体 とか 物ではなく心に とか は私つまり努力の妄想)完全無努力(抽象)においては 真の知覚(認識)すらも実在しない補足神から離れて存在するものはなにもない。つまり、いやし
存在するものそこにマインドの枠組みが立ち上がるそのなかが意識である意識のなかに自律という信念があらわれる自我である自我は肉体と同一視し、世界を観察している「顕在」意識というのは形而上で「マインドの枠組み」が立ち上がったことの反映のようなもの
内面であれ外面であれ起こることしか起こらないならマルチシナリオを選ぶときに自由意思は意味ないですなぜならそのとき それを選ぶだけだからたとえばじぶんでマルチシナリオのゲームを作ってなんでもえらべるでーとおもっていてもそのときの気分で選ぶこと
最近またノンデュアリティのAKANEさんと公式LINEでほんのすこし対話したAKANEさんはただそうであるというフラットな感じでありそれを誰かがやってるわけではないといっていたつまり自然意識みたいなものであろうこの自然意識(存在意識とよぶ場合もある)は自