探究と無探究のちがいについて探究の場合は外側を追求したり内側を探究したりしますが(スピリチュアルメソッド)すべてがらひとつの顕われとはみえてませんでしたしかし無努力のときはすべてが平安につつまれてるので日中の夢のなかでも平和でしたちがいにつ
もし自我が意識を概念としてとらえてコントロールできるとおもったり意識にとどまれると思っていたり意識以前の無努力にもどろうとしていたりするとすればそれはコントロールという信念(自我)である恩寵はただ起こっているのだそれゆえ意識さらに意識をうみ
平安は抽象自然の記憶であるそして探究エネルギー(わたし)や意識はオートマチックな幻想である意識上にあらわれる自我(コントロールの信念)もシナリオである身体もオートマチックな幻想である癒しもまたオートマチックであるそれは探究以前の無努力の記憶
朝起きると映画館で映像をみるように違った映像があらわれることになるそれゆえなにかをしなければならないと錯覚するしかし意識自体はほぼ変わっていないのでとくになにかをすることはないのだあえていえば顕在意識になったのでそれすら手放しておくことだけ
本日のインドの聖典(最終章)読書中感想実在においては因果関係はないつまり二元はないつまり原因(はじまり)と結果がないつまり私と世界はない創造も被造物もない神(ただ在ること)は夢を見ていないなぜなら神はただ在るからであるそして私という空想(動
インド聖典もうすぐ読みおわります(最終章のはじめらへんをよんでいます)本日の読書と湧いた言葉無執着(ノーマインド)によってなされた行為は行為とみなされないつまり夢にすぎず無効化されるということ無心の境地で体験されている原因のいらない平和は天
本日湧いた言葉昨夜よく眠り夢をみながら朝おきました夜の夢の景色、友達、自分(客体)観察している者(主体)自然なる愛がテーマ(主体以前)ということ感じで夢をみていたような感じでした朝おきたら朝からの夢がありますが基盤に安心がありますだからなに
かんたんにいえば世界の根本が二元であろうと一元であろうとどちらでもいいのですもし二元ならだれも一元にはならないというだけのこともし一元なら命の遊びといやし起こることしか起こらないという宣言じたいがひとつのものへのサレンダーになっているのでメ
本日の朝読書の感想インド聖典では、解脱の章にはいりましたラーマが覚醒しだしました^_^心をハートに休ませなさいという文がありました自然なる愛ハート(記憶)心意識自我自我からストレートにハートに癒されることが癒しなのでしょうそのとき私という言葉
たとえばこの世界は自我の世界ですが東西冷戦という状態があり資本主義と共産主義の争いがありましたほんとうは無条件の在るがままが救いなのですが東西冷戦は夢のなかの二元性をあらわしていますつまり自我の好奇心と罪悪感です自由な欲望(資本主義)と罪悪
わたくしがおもうによく意識のなかの私という観念はないこれがいまここの悟りだという話をききますがこれは完全な悟りではなくエネルギーとしてのわたしが癒された状態が意識すらもきえる平安(自然なる愛、無条件、真の純粋意識?による癒し)だということで
5つの境地(インド聖典より)日中の意識夜の夢見熟睡(深い眠り)純粋意識(トゥーリヤ意識、目覚めた深い眠り、第四の状態、ジーバンムクタ、世界は意識のリーラにすぎない。宇宙はブラフマン。)トゥーリヤティータ(身体意識の終焉 パラムクタ) ムクタ
本日も起こることしか起こらないのなかで次のような言葉が湧いてきますなぜ悟りに思考はいらないかです意識はすでにありますそれは思考によって生まれたわけではありませんたとえば顕在意識(意識の反映)は朝起きたときからすでにあります考えはそれを超える
今日湧いた言葉水が動くときそれ自体を渦巻きとして表すことがあるように円のような表現があらわれるがしかしそれは独立性をもたない渦巻きのはじまりは水であり渦巻きのおわりも水である独立した円は実在しないじつはそれが自我である同様に好奇心であるその
自然であることが私はないといってるだけで自然から私があらわれるならそれは自然がやってることで私が自然になくなるときも自然がやってるだけじつはオートマチックよ^_^
2020年8月末 3夜連続 NHK放送 エヴァンゲリオン (新劇場版映画) について 仮説してみます (エヴァンゲリオンという作品は ^^ゞあまりしらなかったので) 神と ひとつにかえるものがたりのテーマのようです 有名なエヴァンゲリオンにでてくる計画(シナリオ)
この前竜とそばかすの姫が地上波で放送されるからみようと思っていたら安倍さんのニュースでふっとんでしまったあれからTSUTAYAでこの前レンタルして見たら腑に落ちましたあの日に事件がおきたことは偶然じゃないということ(集合無意識的シンクロ?)映画の