努力0の世界とは私がないゆえに内も外もない世界ですつまり内側に集中することはなく外側というものもない自然な存在ですそれ(「汝それなり」)を存在意識、純粋意識とか、ナチュラルステート、サハジャ(自然状態)とか、実在する世界といいます
本日の湧いた言葉(完全なる自由)真実は無条件で在り、努力0ですもし真実のために努力は必要だというならその真実をこれからも維持するために永遠に努力しつづけなければならないということになりますそれは無条件ではなく幻想世界へのこだわりだということ
本日の湧いた言葉(意識はなぜ退屈なのか)よくノンデュアリティでは意識(今ここ)が悟りだといわれていますがもしそれが顕在意識を意味しているならば誤りだといえます意識が退屈におもえるのは好奇心にもとづいているからです最初に好奇心(IAM アイアム)
真の祈りはつねに在るものへのためにある自然精神統一(自然の記憶により精神を癒し統一すること)癒され平安(奇跡)がこの世界に延長することになります精神(マインド)の枠組みは依然としてまだ残っていても、平安というエネルギーが延長しているのです自
世界の真の終焉とは努力のある観照や観察はいぜんとしてリラックスしていないために二元の世界である(そのようなタイプの観照はまだ半二元であるといえる)現実存在の自然により癒されてリラックスしているときは幻想の世界はないかのように生きている私と世
本日の湧いた言葉言葉は はかない(無常)、思考は はかない(無常)実在をさし示すときにも、言葉、思考の無常さからはのがれられないのであるがさし示す実在そのものが無常ではないさて 本日も湧いた言葉をかいてみよう真実からみれば、世界の価値はフラ
湧いた言葉自然から(のオートマチック)存在 無努力心も(投影された身体や)物世界もない意識(気づき)というものにもこだわっていない自然さ が常にある空(くう) 自然なる愛である
本日の湧いた言葉一事が万事の一事とは自我つまり個すなわち全体(自然)から離れることが起こり得るというマインド(ワクワク)の信念を現実にしようという妄想を信じ込むことである自我は好奇心と罪悪感の存在であるそれは好奇心(偽りの生への衝動)であり
NAC 2023年版 鎮魂ノンデュアリティ ノートまとめです自然から(のオートマチック)(ヒーリングについての説明)あらためて精神統一できないのはじつは一度も自然さを失ったことがないからです(形而上学的な説明)ノンデュアリティの形而上学の多重次
本日の湧いた言葉(ノンデュアリティ感想)自然から(のオートマチック)自然 ひとつ 安らぎ特別な存在ではない(カリスマ性は偽の神話である)特別でありたい私そして何かになりたい私という架空の旅(つくられた出発点から目的地)という妄想がなにも特別
本日の湧いた言葉ヒーリングについてナチュラルスピリットはフリーエネルギー固定観念(私)を祓い清める輪廻の輪の最初の元は(私)という架空の輪表裏一体とはそもそも何についてなのか私の性質のこと(希望と絶望感)であるすべての価値観の元は(私)とい
なにも起こっていない空間それはいつもあり平穏であるそれはただ今(今この瞬間)であり何もしていない空間なにもしなければ世界がない幻想がないみずからは平穏でありそのしあわせであるためになにかする必要はない
本日の湧いた言葉(奇跡講座ACIM、のキリストの正体)奇跡講座(奇跡のコース、ACIM)とノンデュアリティの世界観のちがいについて奇跡講座では神とキリストを一つで在るとともに、ある意味においてちがいがあるとかいている神はキリストを創造し、そ
本日の湧いた言葉(ノンデュアリティからの感想)「私」(個)自体が偏見(集中、緊張)の源であるそれは不幸であるなぜなら実在は在るがままの平安であり幻想は平安とは異なるという意味であり非平安だからであるそして幻想は非実在であり無意味な旅であった
ノンデュアリティについて自宅ノートメモから(自然からの癒しがおきている場合についての説明)私が悟ることができるというのはエゴのストーリーです私が上がっていく場所も、私が深く行ける場所というのも不自然な妄想です自然なエネルギーが実在しているだ
本日の湧いた言葉カルマの本質である因果とはほんらい幻想のマインドの性質自体のことであるすなわち無条件(自然という在るがまま)ではない空想(偶像)としての自我の性質は特別な愛と罪悪感という性質であるこれが自我というコインの両面感情であるそして
本日の湧いた言葉偶然はない善人に災禍がふりかかるのはなぜかについて世間的に見て善人な幸せな人々に地震の災害や戦争で巻き添えをくうのはなぜかそれは偶然(理不尽)ではなく 必然であるカルマにおいて理不尽であるというのは誤りであるさて真理とはなに
あるがまま自然禅語「何でも、けっしてとだえさせてはならん」世界はない(空き缶ポイ捨て)ではなく世界は在るがまま(ただ今という自然)から離れていなかった(これがいやし)永遠が途絶えたところに「私」や「世界」が実在であるかのようにあらわれるしか
本日の湧いた言葉(旅の最後のために)永遠のただ今(自然)についてスピリチュアルの初心(自我への信念が強いマインド)聖霊(神)を外側にみて、祈りつつ恐れているスピリチュアルの中級(マインド)聖霊(神)をうち側にみて、明け渡す用意にあるスピリチ
心もなく 認識もない無心といっても、ちゃんと認識していて、認識し作用しつつ、いつもひっそりと元のままだ。もともと一つの精神が6つの機能(心と5感)にわかれるのである。もともと心が生ぜぬ(実在ではない)から、どこでも解放される。想念が乱れると本
みずからは本来清浄ほんらい何もする必要はない永遠とはその今である今のなかで夢は癒される癒す者も、癒されるものも、方法も、道もことごとくない真に在りつづけるか仮(心)から修行(偽りの道)をつくるか座禅とはほんらいすでに在ることの意である心身脱
実在とは完全な平和でありその記憶が平安であるよく勘違いしやすいのは意識や精神というフィーリングでありこれらはマインドを想起させるものであり意識や精神統一というフィーリングは自然(完全平和 ナチュラルスピリット 真のエクスタシー)ではない自我
なにもわからないからこそ、自由のまま、なのである(まずわたし、とわけることができない、わからない何かへ理解、分解するわたしが、そもそも架空でいないということ「わたしは何か」自体が、架空の者による空想という疑問でしかないのだ)
本日みた動画 みんなできている座禅会 提唱 どこをどう切り取っても見性体験 笑う悟りのセールスマンはあなた自身の中に潜んでいるhttps://www.youtube.com/live/yuRyl6cuF-g?si=YHxP8aaqhz_37CEw
本日の湧いた言葉奇跡講座(ACIM)の真の赦しについて学習者は最初は自我自身が対象として作った、怒れる神からの分離を恐れているように錯覚してしまうそのため恐れがまさに現実のように感じてしまうしかしじつのところそれはまったくの誤解で無条件の自
ノンデュアリティについての感想のまとめ心を想像したのは誰?実相であるわたしを作ったのはわたしではないわたしを癒すことができるのもわたしではない実相であるわたしからはなにもできないわたしと世界の出現はオートマチック(一元からの妄想)であるにも
本日湧いたノンデュアリティの感想この世界は不足感(わたし)により狂ってしまった者(自我)による妄想的体系(宇宙)であるナチュラルスピリットの記憶は永遠の存在の記憶であり存在(愛)に助けを呼び求める心に答えるそれが癒しであるナチュラルスピリッ
私はいない とはたんに自然さであるつまりリラックスなのであるが私はリラックスしようということではなくすでに在るリラックスの癒しのことであるそれが平安という自己なのであるそれは探究エネルギーを現実化した自我が投影している五感ではなくあるいは自
付記) 約束のメッセージをネット上にかいたとき もうひとつの 歌がこころにながれてきました。 天使のため息 竹内まりや / TENSHINO-TAMEIKI Mariya Takeuchi https://youtu.be/-TaVzksCc_g?si=bqunFE5d6B43rL-7付記2) 上記のメッセージに関する付記のつづ