すでにある認識が悟りそれは依然マインドの枠組みの中にあるため、それは限定されているかのように感じるが、ある意味では知覚は存在意識に癒されていて、こころの枠組みものこされているがそれもまた存在意識によりある意味では癒されているといえる
特別の愛を提唱する反キリストたちYouTubeを見ていたりするとよく今、愛を選択するといった発言をみかけるこれすなわち反キリストの思想にほかならないどうやって今愛を選択できるというのだろう誰が?何を?二元の発生これはエゴが架空の遊びをしているそれ
人生の状況は、フォーカス(集中、私)によってあらわれるフォーカスがなければ、リラックス(抽象の記憶、平安)があるフォーカスがない場合、状況へのジャッジもおこりようがない天使に白い羽があるという象徴は私から解放された
探究のおわり^_^お久しぶりです最近おもうことは霊界も物理的世界も光(愛とか慈善)と闇のたたかいがずっとつづいていて永遠ともおもえる無駄な夢であるということです永遠ともおもえる愛(平和)への進化の旅をつくりだしているのは神ではなく自我なのかも
私はいないという真の知覚ノンデュアリティの説明の誤りについて(気づきが起こっているだけ 私はいない)ということについてノンデュアリティスピリチュアル業界では説明がされていますが奇跡講座により癒しがはっきりしてきますと次のような適切な説明にな
スピリチュアル令和維新のメッセージ(みんな神さまの子)さて久しぶりにテレビの話をいたしますゴチになります!というグルメ番組がありますが今年この番組にゲストで出演され相撲で大関となった御嶽海(みたけうみ )さんは、わたくしの祖先のルーツ
ノンデュアリティの葛藤について解説起こることが起きているだけに対して自我が抵抗して困るという悩みについて起こることが起きているのは大我(形而上レベルの自我)が引き起こしているのであり形而下(生活レベル)の自我がそれを嫌がるのは当然であるなぜ
意識は悟りではありません意識上にある私という思い込みが自我ですその私は実在ではありませんもしその自我が実在するというのなら二つの意識が存在していることになりますが意識は一つしかありませんしたがって自我は実在ではありません自我が体験する身体と
ほんとうに大切なものは目に見えないとかほんとうに大切なものは形のあるものじゃないとだれかが語るそれはどういうことか大切なもの形づくる必要はないということである大切なものは形(努力)じゃないということであるあるがまま、自然さ、ふつうさ無条件さ
(かんたんさとり生活、あるがままベースの生き方)ふつうにしていたら知覚もすべて癒されており(知覚)すべてがそれのあらわれこれがベース(基本の生き方)悟りがないと仮定(思考)してしまうと(私)によってないない悟りさがし努力してるから同じく知覚
次に奇跡講座の誤りについて述べます。これはカリフォルニアオリンピックのためのコメントです(いつものとおりまた、さきにかいています 奇跡講座をもさいごは癒すのだと)真のピュアノンデュアリティは私を起こしたのは私ではない私をなくすのは私ではない
ノンデュアリティの説明はなぜ間違っているかについての解説をしますピュアノンデュアリティ(純粋な非二元)では起きているようでほんとうは起きていないの意味を私が実在しないのでほかのすべてもなにも起きていないとなります実在している私に起こっている
中級の神の教師とは決断する主体が基本ベースになるのではなくあるがままの記憶の反映が基本ベースとなるあるがままの記憶の反映に完全に落ち着いたことが上級の神の教師ということである
(かんたん、聖霊、あるがままの記憶の反映、ふつうは学ぶものではない 笑 誰かに依存する必要もない)いつものじぶんふつう悟りの反映そういう話をする必要もなくなっちゃうね笑