mixiユーザー(id:68021579)

2022年06月26日07:31

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無努力からのオートマチック

意識とは
閉じられたスクリーンのようなものです

それは
私が努力する
私は努力しない

といったこととは関係なくあります

ここでいう私とは
自我(の反映)のことです

つまり自律しているという観念であり

意識上にあらわれているもの
です

つまり「自分から」コントロールできるという信念です

そのような動きとはかかわりなく

意識はあります

意識のなかで

自我(の反映)である私は

道を探して

迷います

ゴールはなく

すべては幻想なのです

意識は

変わらずにありつづけます

意識には

夜の夢と昼の夢という
境(あいだ)に

じつはとぎれはありません

同じ意識のなかにあるのです

体外離脱しても意識は変わらないのです

自我は夜の夢や昼の夢、さまざまな夢を見ますが

それは変わらない意識のなかにあります

自我は
波動を変え

さまざまな夢をみます

それは意識のなかにある自律という催眠(解離作用)なのです
それにより
自我の産物である愚かな世界のシナリオを経験します

それでもすべての自我の波動は
変わらない意識のなかにあるのです

しかし
この変わらずにある意識でさえ

基盤ではありません

またときに

大いなる意識、大いなる自我、大いなる投影宇宙

と形而上で一体化したとしても

それは

幻想の一瞥体験だということです


浅い熟睡と

深い熟睡があります

前者は

無知の状態です
つまり
変化がまったくない意識
の体験のことです

あとで休息から目覚めた自我は
変化が「ない」
ゆえに
浅い熟睡ではなにも存在していなかったといいます
しかし「ない」というのは

変化が「まったくない」ということにすぎません
閉じられたスクリーンがまだあるのです

これが浅い熟睡です

そして

深い熟睡とは

意識すらも幻想であり
個(意識のなかの自我のことではない)によって作られた
分裂存在でしかなかったということなのです
それは聖霊によって癒され

平安な状態となります

熟睡しているときに

平安か平安でないかによって

ふだん

サレンダーがおこっているかのかどうかがわかるのです

恩寵により平安があるとき
それは
昼間の夢のなかでさえ
平安を感じることができます


好奇心(個という空想)であれ
意識であれ
催眠(自律)であれ
癒しであれ

すべての衝動はあるがままからの

つまり

無努力からのオートマチック

です











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