mixiユーザー(id:68021579)

2022年06月17日07:13

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ほんとうの悟り



避けられない真実があるのだ

それは

意識(気づき)

はまだ悟りそのものではない

ということ

なぜなら

意識は探究をはじめるからである

正確にいえば

意識よりもまえにある
わたし(一般的スピリチュアルにおいては
自我エネルギーという)



探究したがっているからである

その衝動は

意識以前からあり

意識のあとの

私という観念から生まれているわけではない

もし意識に探究エネルギーがなければ

そもそも

私という観念が
意識上にうまれるわけがない

したがって

意識以前に探究エネルギーがあることになる

それが
わたし(一般スピリチュアルでは自我エネルギー、神の使者の本ではもともとワクワクという好奇心であると説明されている)

この説明はわたくし自身の経験によるものであり
間違いではないと感じている

したがって
意識を悟ったからといって
探究はおわらないのである

意識を起こしている
(日常的レベルの反映、シンクロにおいては、
顕在意識を起こしている、といってもよいが)

 わたしというエネルギー
(一般的スピリチュアルでは自我エネルギー)
が癒されなくてはならない

このわたし(一般的スピリチュアルでは自我)というエネルギー

無意識的 である
つまり

意識以前なのだから
無意識である

それがわたし(自我)というエネルギー
なのである

しかし
スピリチュアリストは
普通の人なら気づけない

この無意識努力
をとらえることができるようになる

そして

わたしというエネルギー以前に
サレンダーできるのだ

すると

癒されて平安が残されているマインドの枠組みに浮上してくる
これが奇跡講座では真の知覚という延長
とよばれる

わたし、意識、知覚が癒されている
ということである

ラマナマハルシ(絶対意識、純粋意識が悟り)
なら
熟睡における平安を、昼の目覚めにもたらす

と説明している

つまり
目覚めた熟睡
という表現だ

意識(気づき)が悟りではないというのは

平安においては

気づく必要がないからである

ほんとうの平安という感情は
その感情だけが実在しており

それ以外のほかのなにかに気づくわけではない

平安という感情(自然である愛の記憶)
だけが実在しており

ほかのなにかに気づく私はいない



それはただ平安なのである







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