また図書館で借りたCDだが、アルバン･ベルク(1885-1935/墺)の歌劇『ヴォツェック』を聴く。
私のオペラ彷徨も、標(しるべ)なきまま、モーツァルトに始まって、終にベルクに迄来た。その間の主要作家の点と点を確実に拾ってきたのかと問われれば、勿論否”と答えるしかない。盲(めしい)の闇雲な彷徨いがそこに標されるばかりであって、ドロ道には穴凹ばかり、全くもってお恥ずかしい限りだが、当人としてみればなかなかの感慨なのである。
ベルクは50歳で早世した人だから、没年の1935年で計るのはバランスが悪いが、ヒトラーのナチスが政権を取るのが33年、第2次世界大戦の足音もすぐそこに聞こえる。間違いなく現代という時代に突入している。
大江健三郎も小澤征爾もこの35年生まれだ。
既に愉しんだ『サロメ』と『ばらの騎士』のリヒャルト･シュトラウスは、戦後1949年迄生きたが、生年は1864年であって、グスタフ･マーラー(1860-1911/墺)と括り、ベルクより一時代前の人と考えた方がいいだろう。ベルクが同い年迄生きたとしたら、1968年を彼は見た事になる。
この年にはアポロ8号が初めて有人で月を周回し地球に戻った。
音楽的には、とうとう”無調”に迄やって来た事になる。全く新しいオペラだ。
これも過去に鑑賞した『カテリーナ･イズマイロヴァ』を作ったドミトリー･ショスタコーヴィチ(1906-75)の方が、単純な年代では新しいが、ソ連邦という社会主義の枠組みは、音楽の前衛化を許さなかった。彼は、西の12音や無調の影響を勿論受けてはいるが、原則的には調性音楽の人、古い時代の象徴的尻尾である”交響曲作家”である。
さて、文学の側面を言うと、原作はゲオルグ･ビュヒナー(1813-37/独)の未完の戯曲『ヴォイツェック』である。未定稿である為、順番も結末も違う異本があるが、全27場(20場,22場と数える場合も)の中から、ベルクは整理してドイツ語3幕15場の台本を作った。
原作『ヴォイツェック』がオペラ『ヴォツェック』となった、”イ”がなくなった理由は正確には判っていない。
ヴォイツェックという男は実在の人物で、情婦をを殺して死刑になり、事件は当時多くの注目を集めた。
ビュヒナーは、彼を理髪師上がりの最下級兵士とし、子迄もうけた内縁の妻マリーが士官と浮気した事を咎め、精神に変調をきたすうちに、終にナイフでマリーを殺し、自分も殺人現場近くの池で溺れて死ぬという陰惨な物語とした。
オペラはこの物語の、被抑圧階級の悲劇、人間不信、情欲と殺人、不条理と狂気、等を、表現主義的な雰囲気の中に鮮やかな原色で描いた。
鳥肌の立つような、背筋の寒くなる感じ、隅にじわじわと押し込められるような圧迫感、逃げられぬ閉塞と狂気の感覚を覚えずにこのオペラを観聴く事は到底できないだろう。
こんな空気が、第1次と2次の大戦の間のヨーロッパに、重く漂っていたに違いない。
声の扱いは、従来のベルカントとは全く違う。人の声をどうしたら一番美しく響かせられるか、そういう志向の次元ではない。
ヴォツェックはパリトン、マリーはソプラノではあるが、その範囲を破って高く低く発声を要求され、美しきトーンやバランス、ハーモニーという旧の価値観で歌手は歌い通す事はできない。ある時は、破れたような狂気を、地声で出さなければならない。
師シェーンベルクが『月に浮かれたピエロ』で使った”シュプレッヒシュティンメ”の手法が歌唱と併用される。これは”音程とリズムを規定した朗読”とでも言えばいいか、12音や無調音楽の効果の表現を可能とした。
人の声は、平均律のキーの間を自由に飛び跳ね移ろう、最も古くそして最も新しい楽器だという事を、改めて実感させられた。
そして、声は、楽器というソフィスティケートされた表現器から紡ぎ出されたものより、使い方によって、より一層、生な感情そのものである。
このオペラを聴いて覚える鳥肌は、抽象的に言えば、その辺りからも来ているのかもしれない。
指揮 クラウディオ･アバド
演奏 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団
出演
ヴォツェック フランツ･グルントヘーパー(br)
マリー ヒルデガルト･ベーレンス(s)
鼓手長 ヴァルター･ラファイナー(t)
大尉 ハインツ･ツェドニク(t)
医者 オーゲ･ハウグランド(b)
他
1987年録音。アバド＋ウィーンフィルの圧倒的名演である。
《ヴォツェック》の音楽的構成は以下の通り。
各場は物語にのみに依拠するのでなく、音楽形式と緊密に結び付けられている。このオペラの稀有な性格である。
第1幕 5つの性格的な曲
第2幕 5楽章の交響曲
第3幕 5つのインベンション
更に、場の単位で見てみると、
第1幕/第1場 組曲(プレリュード,パヴァーヌ,カデンツァ,ジーク,カデンツァ,ガヴォット�記�,エア,逆行プレリュード)
第2場 ラプソディと狩りの歌
第3場 軍隊行進曲と子守唄
第4場 パッサカリア(12個の音による主題と21の変奏)
第5場 アンダンテ･アフェットゥオーゾ(クワジ･ロンド)
第2幕/第1場 ソナタ
第2場 3つの主題による幻想曲とフーガ
第3場 ラルゴ
第4場 レントラーとスケルツォ
第5場 ロンド･マルチアーネ･コン･イントロドゥツィオーネ
第3幕/第1場 インベンション(主題と7つの変奏とフーガ)
第2場 1つの音(ロ音)によるインベンション
第3場 1つのリズムによるインベンション(スケルツィオ)
第4場 1つの和音(6つの音)によるインベンションと間奏曲(アダージョ/調制)
第5場 8分音符の無窮動によるインベンション
繰り返し現れる大尉のモチーフは、ベートーヴェンの交響曲多第6番《田園》に似ていて面白い。
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