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2008年10月10日22:16

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「ヴィルヘルム・ハンマースホイ〜静かなる詩情」展

10/7-8(火-水)の上京、新国立劇場のオペラの翌日は、上野、国立西洋美術館にて「ヴィルヘルム・ハンマースホイ〜静かなる詩情」展を観る。
殆ど知識のない画家だが、サイトに惹き付けられ、出掛けていった次第。
これがそのサイト。
http://www.shizukanaheya.com/

これ程魅惑的な展覧会サイトは、今迄お目にかかった事がない。キュレーターがサイトメイキング・グループのかなり奥迄入り込んで作り上げたものだろうと思う。
私のような動機で出掛けた人も少なくないだろう。

サイトから見た初印象では、フェルメール(1632-75/オランダ)に似ているなあ、と。
デンマークの画家、19世紀末から20世紀にかけての人だという事で、時代は違っても、オランダとは近いし、文化的な近親性もあるのだろうと勝手に推測した。
室内に入り込む光の感じや、静謐な空気感も似ている。
しかし、この後ろ姿は一体何だろう、顔というのは、肖像画においては中心になるもので、作者としても、鑑賞者としても、そこに力点の1つが置かれるのは間違いのないところだろう。肖像画と言わない迄も、人間を描く以上、同じ事は言えるのではないか。
これは深からぬ一般論で言っている。トルソのようなものも勿論あるが、ここでは議論の為の議論はしない。
まずはこの目で観てからだ。

ハンマースホイ(1864-1916/デンマーク)の名は、当時のヨーロッパでかなり知られるに到ったが、没後急速に人々の記憶から薄らいでいった。
近年、欧米の何ケ所かの有数な美術館で個別の回顧展が開催され、改めて人気が高まってきた。
で、総合的な規模の回顧展が叫ばれ、まずロンドンで行われ、それプラスαがこの日本にやってきたという訳である。結果、生涯に亘る彼の作品が86点、同時代のデンマーク画家作品が19点、総計105点がこの西洋美術館に集まった。ハンマースホイとしては、アジアで初めての総合回顧展となったのである。

であるからして、ハンマースホイの全貌を眺められるように、というのが、今展覧会のコンセプトとならねばならず、以下のようなチャプター設定がなされた。

1)ある芸術家の誕生
2)建築と風景
3)肖像
4)人のいる室内
5)誰もいない室内
6)同時代のデンマーク美術

1)では、画家としてのスタート時の作品を集めた。
1880年から90年の間の13点。
その中に彼が公けに初めて出品した『若い女の肖像、画家の妹アナ・ハンマースホイ』(1885)がある。王立美術アカデミーの春季展で落選となったもの。この落選という処遇は、アカデミー(言わば保守文化の代表)と画学生(進歩的芸術観の代表)の間で論争を引き起こし、逆に彼の名を世に知らしめる事となった。
全体が殆どモノクロームに近い暗い色調の中、黒い服を着た妹アナが何かに座り、斜め前を見ている。後ろには、彼が生涯モチーフとした白いドアが閉められているらしい。源は見えないながら左手からうっすらと光が差し込むけれども、女の表情や内面を明確にする程のものではない。
この後、何年か、ハンマースホイの作品はアカデミーから落選の憂き目にあったり、拒否されたりし続ける事になる。

2)では、歴史的建造物と風景画25点。
建造物は、殆どがコペンハーゲンの建物で、いつも賑わっている観光名所のいずれにも人影は一切なく、宮殿を描いても華麗さとは程遠い。北欧独特の靄で霞み、または夕暮れの中に埋没しようとしている。
ほぼ同時代のベルギー象徴派、クノップフ(1858-1921)の描いた『見捨てられた町』やローデンバック(1855-98)著『死都ブリュージュ』を想い起してしまう。
但し、勘違い回避の為記しておくが、人物画においてはクノップフとハンマースホイは全く違う。
風景画は建築物と違って、戸外の光はもっと取り入れられているが、生命の感じられない寂寞感は同じ。

3)の肖像画の対象は、自分のよく知った人達のみである。
妻のイーダ、自分、弟のスヴェン、友人で美術収集家のプラムスンとその家族等。全9点。
ハンマースホイは、あるインタヴューで「モデルが親しい人物である場合は別として、知らない人物がやってきて、注文でその人の肖像画を描かなければならないという状況は好きではない。肖像画を描くにはモデルのことをよく知る必要がある」と言っている。
で、時間をかけよく知ってから描いたのかというと、そうではない、注文肖像画は殆ど描かなかったと言うべきだろう。妻を描いた絵は多数あるが、肖像画というものからは次第々々に離れていく。それは外見や人格、感情等を問題にするのでなく、絵の構造物の中に組み込まれていくのである。
そういう意味では、3)と4)は、ハンマースホイにおいては非常に近いものがある。
例えば『休息』(1905)が、『居間での夜会』(10904)が肖像画と言えるかどうか。
このテーマは、彼を理解する上で、極めて興味の惹かれる問題である。

4)彼と妻は、1898年、コペンハーゲンのストランゲーゼ30番地に引っ越す。この住居の部屋を舞台にした絵が繰り返し繰り返し描かれる事になる。
晩年は25番地に移るが、何れにしてもこの”室内画”は、一生彼が描き続ける事になるものである。全28点。
窓(から入る光)、ドア、テーブル、椅子、そして本や手紙を読むイーダ、家事をするイーダ、ピアノを弾くイーダが、室内の何処かにいる。イーダの多くは、観る者には、黒い服の後姿と光の当たる首筋しか見えない、表情は判らない。
同じドアと窓があり、つまり同じ場所で、家具や壁の絵の配置が組み換えられている、またはイーダのいる位置が変わっている、それだけの変化と思える絵もたくさんある。
風俗に興味があるならば、17世紀オランダ絵画(含むフェルメール)に近寄っていくのだが、全くそうではないようだ。
イーダも人間というよりも、家具やピアノと同じ、部屋に置かれた調度のように思える。
この延長線上に5)があるのは、だれも想像が付くだろう。

5)では、4)から人物がとうとう消えた。11点。
居室の絵画的構造、差し込む光の移ろい、そんなものが主人公となっている。ドアは開け放たれ向こうの部屋が見え、また閉められたドアは、まま取っ手さえも省略される。これは、体温を感じさせるものを排除し、孤独と閉塞性を強調する事に繋がる。
遠近法を効かせた部屋の構造や、光の変化、こういったテーマも、17世紀オランダ絵画には既にあった。
しかし、ハンマースホイの絵に感じられる生命感のなさ、うすら寒い感じは、先達の絵とかなり違う。

では、というので、6)に進む訳である。
同時代のデンマーク画家が何をどう描いていたか。
ここでは、ピーダ・イルステズ(妻イーダの兄)とカール・ホルスーウが取り上げられている。
彼等の絵の中には、ハンマースホイが選択した画面構造がままある。
例えば、窓から差し込む光、室内では、女や子供が、読書したり刺繍をしたり。ハンマースホイのモチーフになった向こう向きの女性の姿もある。
人のいない部屋の片隅に家具もある。
しかし、全体的に、もっと明るく、生命の雰囲気があるのだ。

この違いは一体何だろう。
それは、今回の展覧会では判らない。
研究家達の意見にも、1本化された解答はまだないようだ。

私は1ディレッタントだから、物怖じせず言えば、・・・ハンマースホイは同時代の中で独特で孤立した画家だった。アカデミーの旧い考え方に対抗する意図も、実際はそれ程強くなかった事だろう。政治的性格も思想的性格も彼は希薄だったと思う。
彼には孤独が何より大事で、明確に人間嫌いだった。それは精神的な性癖と呼ぶべきところ迄行っていた。
偶に人物のいない室内風景を描く事は、どんな画家にもあるだろう、しかし、これだけ固執し繰り返し描くというのは、特殊だと思う、病的と言っていいかもしれない。
彼にとっては、建物や風景を描くのも、肖像画を描くのも、室内画を描くのも、最終的には、人気のない空っぽの空間を描くところへ到る。彼の画業は、その時間的な変遷だったのではないだろうか。それを裏付けるに足る論理展開は、まだないのだが。
 
写真は1が『休息』
2、『室内、ストランゲーゼ30番地』
3、『陽光習作』
 
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