舞台は2016年、イングランド北部の、炭鉱閉山後のさびれた町。
冒頭の字幕で、2015年のシリア難民問題で、欧州各地に彼らが移住してきていろいろと摩擦が起こっていた状況が、見ている人にはわかるだろう。
トミー・ジョン・バランタイン<通称・TJ>(デイヴ・ターナー)は、バスでやってきたシリア難民たちが、地元のチンピラから、いやがらせを受けていたのを見過ごせず、若い女性のヤラ(エブラ・マリ)を助けようとする。
TJは地元でパブ「オールド・オーク」を営んでおり、元炭鉱夫たちのたまり場になっていた。
そこへヤラがやってきてTJにお礼を言う。
だが、常連客達は、「よそ者」しかもシリア難民の出現にいい気がせず、心無い言葉を投げつける。
ヤラは男とのいさかいで、大事なカメラを壊されてしまっていた。
TJは店の奥に古いカメラがしまわれたままになっているのを思い出し、ふだんは締めっぱなしの部屋を開けて、ヤラを案内。古いカメラを売れば、壊れたカメラの修理代になる、とヤラに言う。
その部屋は20年使っておらず、雑然としていたが、炭鉱夫や地元の人々のデモの様子の写真が誇らしげに飾られていた。TJのおじが撮ったものだ。
写真家をめざすヤラは興味ぶかげに写真に見入る。
TJは、慈善団体で働くローラ(クレア・ロッジャーソン)とともに、町内を回って不用品や寄付を集めて、町で暮らすことになったシリア難民に提供。
しかし、町の子どもたちは「オレだって自転車が欲しいのに」。
難民の男の子は学校で「お前の国に帰れ」と激しい暴力を受ける。
TJやローラたちが、難民たちとの共生を考える一方、反発し、彼らを嫌悪するばかりの地元の人々。
TJは、店の奥の部屋のスペースをなんとか改装して、地元民もシリア難民もいっしょに食事をして、苦楽を分かち合える場をつくろうとした。
ヤラも「食べることで団結する」というスローガンがある、炭坑時代の写真を見て共感。
この町も、炭坑閉山後は、経済が落ち込んで、住民もどこか心がすさんでいたのだ。
日本でいう「こども食堂」のような、無料で食事ができる場ができたことによろこぶ人々。難民たちも、地元の子どもたちも同様だった。
だが、TJのおさななじみのチャーリー(トレヴァー・フォックス)は、憤懣やるかたない。以前も奥の部屋を開けて使わせてくれよ、と頼んだのにTJはうんと言わず、難民のためには使わせてやるとは!
せっかくの食堂がスタートして早々、水漏れや電気系統の故障で、食堂運営はとん挫。
しかも、その犯人は、難民をヘイトのターゲットにしていたチャーリーたちだった。
衝撃を受けるTJ。パブにやってきたヤラに「国へ帰れ!」とまたもや罵声が浴びせられる。
「わたしだって帰りたいわ! でも・・」。ヤラは泣き崩れてしまった。
TJは、可愛がっていた飼い犬が、妻と両親の墓参で目を離したすきに、別の大型犬にかまれて殺されてしまう、という悲劇にも見舞われていた。
TJは言う。「町がさびれてるのは難民のせいなのか? 彼らが来る前から、ここは落ちぶれていたじゃないか!」。
ヘイトがうずまく中で共生は理想に過ぎないのだろうか。
TJは「弱いものはさらに弱いものを見つけて、いたぶる。強いものに逆らうより、弱い者の顔を踏みつける方が楽だからな!」と叫んで涙する。ローラやヤラも返す言葉がない。
そんな中、シリアに残っていたヤラの父が、収容所で死んだことがわかる。
悲しみに暮れる一家に、お悔やみに訪れる、町の人々。供花が家の前にうずたかくなる。
その中には、チャーリーの姿もあった。彼も、心の底では自分の行為を恥じていたのだ。
ラストシーンは街のお祭りで、「連帯」を謳う大きな旗を持って行進するおおぜいの人々の姿で締めくくられる。
まさに、排外主義がうずまく、現代の日本にもタイムリーな映画!
ケン・ローチ監督は「大地と自由」(1995年)を見て以来、大好きな監督である。
今年90歳の監督が、差別と外国人ヘイト問題に、まっこうからストレートの剛速球を投げ込んだような作品だ。
「自分たちより難民が優遇されている」「得体のしれないムスリムが隣に住むのは嫌だ」という感情的な差別意識と、それを乗り越えて共生しようと努力する人々との軋轢。
多くの人に見てほしい映画である。
終盤、ヤラが地元の大聖堂を訪れるシーンがあるが、石造りの教会が本当に美しく、見ているだけで心安らぐ。
(5月1日、KBCシネマ)
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