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2023年12月03日11:14

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【記録資料】片岡義男「歌謡曲が聴こえる」でのフランク永井3

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   【第12回フランク永井歌コンクール告知】
 2024(R6)年3月16日(土)17日(日) 大崎市松山体育館
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   フランク永井 歌コンクール official サイト
     https://f-nagai.m-machikyo.com/
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 前回に引き続いて、片岡義男の「歌謡曲が聴こえる」から引用させていただきます。
 デビューから連続して4枚の洋楽をだしました。いくら本人が満悦して歌おうが、社会がフランク永井の洋楽を求めませんでした。米軍キャンプでは喜ばれたものでも、日本人の当時の感覚には触れなかったのでしょう。
 恩師からの配慮した誘導で彼は歌謡曲に転向して「場末のペット吹き」をリリースします。この時点ではあまり振り向かれなかったのですが、1957(S32)年の「有楽町で逢いましょう」で、一気に爆発的なヒットを実現します。「場末のペット吹き」だけではなく「東京午前三時」「夜霧の第二国道」「羽田発7時50分」と遡って売れてゆきました。
 そして、それらは映画化されて、ファンを大いに楽しませました。
 片岡はフランク永井のジャズで鍛えた発声と、流行歌の日本語の発声の関係を語っています。吉田正は流行歌というか、日本人を対象にした日本語の発声について、徹底的にフランク永井を指導しました。都会の夜の大人の癒しにあう、後に「都会調」「ムード歌謡」と呼ばれる分野を実現するのに、不可避であり、フランク永井の歌唱でこそ実現できると考えたからでした。

【◆日本語からの脱却
 トレーニングでは、歌に即して言うなら、英語の歌詞の言葉ひとつひとつの発音がまず課題となった。歌詞としてつながっている言葉のなかにメロディは内蔵されているから、歌詞のつながりは歌のリズムであると同時に、英語のリズムでもある。そして歌詞は意味でもある。意味とは英語の構文のことだ。これらの言葉がこのようにつながってこの意味になる、ということが完全に理解されていないと、英語の歌は歌えない。ここにおけるいたらなさがもし歌手にあれば、そのことはその歌手の歌として、あからさまにおもてに出てしまう。
 1955年の彼は、「素人ジャズのど競べ」という日本テレビの番組に登場し、年間ベスト・ワンの評価を獲得した。ヴィクターというレコード会社のディレクターがその彼に注目し、その結果として彼はヴィクターの専属歌手、フランク永井となった。
 このときのフランク永井はジャズ歌手だった。広い意味でのジャズ・ソングを含めたアメリカのポピュラー・ソングを、主として英語の歌詞で歌う歌手、というほどの意味だ。デビュー・レコードは「恋人よわれに帰れ」のSP盤だった。
 その年の12月に二枚目、そして1956年には4月と5月に三枚目、四枚目が発売された。いずれも英語歌詞によるアメリカのポピュラー・ソングだった。
 当時のレコード業界では、三千枚から五千枚は売れないと、売れたとは言えないとされていた。フランク永井のジャズ・ソングの売れ行きは、誰が見ても好ましい数字ではなかったようだ。さて、どうしようか、と誰もが思う。フランク永井当人も真剣にそう思ったし、仕事の現場で親しく接する人たちも、おなじ思いを抱いた。
 小粋な歌詞が素晴らしいメロディとリズムに乗って、あるときはゆったりしたバラッド、そしてあるときは気持ち良くバウンスするスイング、というようなアメリカの歌を、ビング・クロスビーからの影響を中心的な柱とする歌いかたで、円熟の境地をしばし披露して客を楽しませるのが、フランク永井にとっての、人前でプロとして歌うにふさわしい歌いかただった。1950年代いっぱい、そして1960年代に入っても、日本でジャズは盛んに流行していた。ジャズの流行という多分に風俗的な広がりのなかに、フランク永井のジャズは入っていなかった。日本の人たちにとって、フランク永井のようなジャズは、もっとも関心の薄かったものだと、僕は判断している。
 日本が連合国に占領されていたあいだ、日本各地にアメリカ軍の基地がたくさんあった。米軍キャンブと呼ばれたそれらの基地では、兵士たちの娯楽の中心に位置していたのは音楽だった。スイングのダンス・バンドから小編成のビバッブまで、兵士たちの階級によって需要は多様だった。占領が終わって時代が少し進んだ頃には、カントリーやロックンロールの需要も高かった。アメリカ本土からバンドや歌手たちが頻繁に慰問に訪れたが、日常的にジャズやポピュラー・ソングによる娯楽の提供を引き受けたのは、日本の演奏者や歌手たちだった。需要は供給をはるかに上まわったから仕事はたくさんあり、しかも基地の外にある日本の現実とくらべると、たいへんな高給を手にすることが出来た。基地のなかでのポピュラー音楽の仕事は、アメリカと日本とのあいだにあった途方もない落差のはざまに身を置きながら、吸収することの出来るものは貪欲に吸収する場でもあった。
 フランク永井がレコード・デビューのために選んだ「恋人よわれに帰れ」という歌は、この日本語題名のまだなかった頃、キャンプまわりをしていた日本のミュージシャンたちにとっては、使い込んでぽろぽろになったノートにコード進行と基本メロディをメモし、耳で囁いた英語の題名をカタカナで可能をかぎり再現して「ラバカンノバクツミ」などと書き添えたスタンダード・ナンバーのひとつだった。
 フランク永井は歌謡曲を歌うことにきめた。歌手として先輩にあたるディック・ミネがそうすること強く勧めたし、作曲家の吉田正は、歌謡曲とジャズを両立させたいと願ったフランクに、歌謡曲だけにすることを求めた。吉田正は日本語歌詞の歌いかたをフランクに教えていた人でもあった。ジャズ歌手から歌謡曲歌手へと転向したのではなく、英語の歌詞の歌から日本語の歌詞の歌への、単なる移行だった。ずっと以前、もう何年も前、確か雑誌で読んだフランク永井による発言を僕はいまでも記憶している。歌詞の日本語の発音のなかに英語の歌詞の発音のしかたを自分は取り込もうとしている、という内容の発言だ。日本語を英語ふうに発音してみる、というようなこととはまるで違う。
 好みのジャズ・ソングやポピュラー・ソングを英語で歌うとき、フランク永井は、日本語らの脱却の快感を楽しんでいたのではなかったか。日本語そのものからの脱却は不可能だとすると、人前で歌う英語の歌詞の言葉が自分の口から歌声として出ていくとき、少なくともその音にだけは、日本語の音からの脱却を、かなりのところまで果たさせることは出来る。英語で歌うことがうまくなればなるほど、歌手当人は日本語の音からの脱却の快感を、よりいっそう深いところで楽しめた。そしてそのような英語の歌を聴いた多くの人たちが、この歌手に日本語の歌を歌わせてみたいものだ、と願った。】

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