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2023年06月11日16:51

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【復刻記事】デビューの頃を語る、僕を変えた有楽町−フランク永井−

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【第12回フランク永井歌コンクール告知】
  2024(R6)年3月16日(土)17日(日) 大崎市松山体育館
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 今回も復刻記事です。スクラップに詳細が記載しておらずに、いつの媒体に掲載されたか不明で、申し訳ありません。
 写真から判断するに、デビューして、そう遠くない時期だと思われます。フランク永井のデビュー当時のおもしろいエピソードは、1964(S64)年に発売された「at RO-ON第1集」、当時有名だった労音での舞台で自ら披露しています。これと重なる話題がここで語られています。
 「しろうとのどくらべ」などで活躍していたときに、商品として自転車を3台も得ていたこと。そしてデビュー曲とされる「恋人よわれに帰れ」1955(S30)年発売の盤はビクターと契約をする前に吹き込んだもの、と言うようなことは、ここで新たに明かした情報です。
 以下、記事を紹介します。

 僕がビクターと契約を結んだのは、昭和二十九年の春でした。
 それまで僕は朝霞(埼玉県)の米軍キャンプのクラブ・シンガーでした。それで結構満足していたんだけれども、何ぶんにも金がない。楽譜のアレンジ代や衣裳代がやたらにかかるんですねえ。
 苦肉の策として考えついたのが、のど自慢の賞金稼ぎなんですよ。民放ではラジオ東京や発足間もない日本テレビが「しろうとのどくらべ」をやっていました。賞金と言ったって大した額じゃないんですが、優勝者には自転車一台が与えられたりしました。
 僕は名前を変えたり変装したりして、何回も出場しました。自転車を三台まで貰いました。何回も出場していると、次第に優勝者のメンバーが決ってくるわけですね。いわゆるのど自慢荒しですよね。
 内心忸怩(じくじ)たるものがありました。無名とは言え、一応はクラブのプロ・シンガーでしたからね。日本テレビのその番組は多忠修さんのひきいるビクター・オールスターズがレギュラーバンドで、それを世話していた小野さん(現・ビクター音楽産業調査室、ビック・アーツ・プロダクション取締役)に目をつけられまして、築地にあったスタジオに連れて行かれました。
 契約以前に『恋人よわれに帰れ』を吹き込みましたが、これはちょっと異例です。
 しばらくポピュラーを歌っていましたが、「日本語がどうもバタ臭い、日本語の勉強をしろ」(笑)というわけで、吉田先生に師事することになったんです。
 歌謡曲に転向するについては、最初かなり抵抗を感じましたが、ポピュラーを日本語で歌う傾向も衰退しつつありましたし、日本の歌をきれいに歌い上げることの意義を自覚するようになりました。
 吉田先生に作っていただいた『追憶の女(おもいでのひと)』という歌が今でも好きですが、何といっても、僕の名が知られるようになったのは『有楽町で逢いましょう』を歌ってからです。それまであまり宣伝して貰った記憶がないのですが、この時ばかりは大変強力に押し出していただきました。
 後で知ったのですが、ビクター、そごう、大映雑誌「平凡」の大コンビナート作戦が組まれたんですね。等身大の写真を飾ったアーチが銀座にできました。
 嬉しくて灯りのついている間、何度も何度も変装してそれを見に行ったものです。まったく自分でもいじらしいほどでしたよ。(談)

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