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2022年07月26日09:42

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ストロング小林さん追悼(201)

76年新日本プロレス「第3回ワールド・リーグ戦」参加外国人レスラーの中で面白いと思ったのがケン・マンテル。マンテルは75年12月6日〜18日まで開催されていた全日本プロレス「オープン選手権」に参加したばかりで帰国してからまだ3か月ちょっとしか経っておらず、実際に3月初めにはメンバーは発表されており、帰国して年が明けてすぐに新日本プロレスと交渉していたことになります。

マンテルは42年テキサス州出身の当時33歳、大学時代はアマレスの猛者としてならし、64年にはNCAA王者となりその実績を引っ提げて66年にプロレス入り、71年8月、本名のケン・ルスクとして日本プロレスの「サマー・ミステリー・シリーズ」に初来日。猪木、坂口征二とはシングルマッチで対戦。

73年12月19日、ミシシッピ州ジャクソンでジュニア最強と言われたダニー・ホッジを破りNWA世界ジュニア・ヘビー級王座を獲得、74年11月の全日本プロレス「NWAワールド・チャンピオン・シリーズ」に来日、世界ヘビー級王者のジャック・ブリスコと豪華「NWA世界二大王者揃い踏み」が実現しました。

12月5日、日大講堂ではNWAのリミットである105Kgまで減量した鶴田を相手に防衛戦を行い1−1から両者リングアウトの引分けとなっています。

75年6月14日、フロリダ州セントピーターズバーグで元同王者、ヒロ・マツダに敗れ王座転落、無冠となった同年11月の「ジャイアント・シリーズ第2弾」で全日本プロレスに再来日、同シリーズに一緒に来日していたダスティ・ローデス、ディック・マードックのテキサス・ジ・アウトローズと共に「オープン選手権」に残留。

ファン投票によるランキングは20選手中19位とブービーでしたが途中帰国することなく最終戦まで闘い、大木金太郎、ラッシャー木村、ドン・レオ・ジョナサン、マツダに負け、グレート草津、アントン・ヘーシンクと両者リングアウト、パット・オコーナーを破る金星を挙げてマイティ井上とは時間切れ引き分けと規定の8試合の公式戦を消化、3点で14位に終わりました。

76年1月からロサンゼルス入りしており新日本プロレスと親密関係にあったマイク・ラーベルのブッキングで来日が決定。前75年は大木を引き抜かれた新日本プロレスですが、引き抜きという程の大物ではないものの「元NWA世界ジュニア・ヘビー級王者で鶴田と日本で引き分けた」という実績に触発されて呼んだのはほぼ間違いないと思います。

唯一の初来日、ラウル・マタは47年1月26日メキシコ・ハリスコ州グアダラハラ出身の31歳。メキシコ時代はドクトル・ワグナーを破りナショナル・ライト・ヘビー級王座を獲得。

70年代初頭にヒスパニック系移民の多いロサンゼルス地区のNWAハリウッド・レスリングに登場、「メキシコの鷹」の異名でベビーフェイスのヒーローとなり72年4月18日にカリフォルニア州コスタメサでドリー・ディクソンと組んでキンジ渋谷&グレート・ゴリアス組を破ってアメリカス・タッグ王座を獲得以来、サルバトール・ロザリオ、ラウル・レイエス、レイ・メンドーサ、チャボ・ゲレロとパートナーを変えて来日時点までで5度の王座戴冠を果たしています。

マンテル、初来日のマタの2人はストロング小林とは初対決。

日本側は第1、2回優勝の猪木をシード扱いにしたのはやはりリーグ戦自体の興味を半減させました。坂口、S小林、マサ齋藤らとの日本人対決や、ペドロ・モラレスとの初シングル公式戦、分の悪いキラー・カール・クラップとの因縁の公式戦などが見られなくなる訳で、星取勘定とは関係ない通常の試合で見ても公式戦のような関心は持てなくなるのは明らかでした。

「20世紀最大のスーパーファイト」と言われるモハメド・アリとの試合が決まり、怪我をさせられない、あるいはアリ戦を前に負け試合は簡単に出来ない等無理をさせられない状況なのは理解出来ますが、結果として猪木絡みの公式戦が見られなくなったことはリーグ戦としてはマイナスです。

坂口は、第1回大会は猪木、クラップと並んで決勝リーグ戦同点首位も、5月8日、東京体育館における3者による優勝決定戦の巴戦(先に2勝した選手の優勝)第2試合の猪木戦で、ジ・インベーダー(ビル・ドロモ)を伴って乱入したクラップに襲撃されて額から大流血しドクターストップによる失格。

第2回大会では日本プロレス崩壊の遺恨を持つ大木と決勝進出者決定トーナメントで両者リングアウトとなり「試合監視委員会」の裁定により失格と2年連続で実力以外の要件で苦渋の涙を飲まされており、今回はなんとしても3度目の正直で是が非でも初優勝をしたいところです。しかし、初対決の強豪モラレス、苦手のクラップ、タッグパートナーであるS小林など一筋縄ではいかない相手ばかりです。

2年連続2度目の参加のS小林は正念場。第2回大会は猪木、坂口とは30分時間切れ、大木に貴重なフォール勝ちをしこの3人と並んで同点2位で決勝進出者決定トーナメントで猪木と4度目のシングル対決、グラウンド卍固めの前に3カウントのフォールを奪われて敗退。

猪木の軍門に降った貌で新日本プロレスへ正式入団。しかし入団後は鳴かず飛ばずで精彩を欠く試合が多く「どうした小林」というファンの声も多数飛んでいます。坂口と組んで北米タッグ王座を獲得、タイトルホルダーとなったのを契機に再浮上してもらいたいところです。

1年ぶりに帰国するM齋藤もサンフランシスコ、ロサンゼルスで対戦経験のあるモラレス、リベラがおり、優勝戦線にどこまで肉薄するか期待大。第1、2回に出場した柴田勝久はポジションが下がり、試合数も減少していたこともありエントリーされず。

同時期開催の全日本プロレス春の本場所「第4回チャンピオン・カーニバル」は4月2日、後楽園ホールで開幕、過去3回のトーナメントによる優勝争い+タイトルマッチラッシュの二本立て路線から思い切って脱却し、参加14選手による初の総当たりリーグ戦法式にシフトチェンジ、3連覇している馬場のシードもありません。前75年、「第2回ワールド・リーグ戦」の台風の目でリーグ戦を面白くした大木が初参加。

これで、オープン選手権で実現した馬場vs鶴田の師弟対決の再戦を初め、前75年10月30日、蔵前国技館をフルハウスにした馬場vs大木の再戦、初対決の鶴田vs大木、12月11日、日本武道館での力道山13回忌追善試合で組まれた大木vsアブドーラ・ザ・ブッチャーの再戦など夢の対決が再び実現、5月8日、札幌中島スポーツセンターの公式戦最終日までリーグ戦が組まれ、最多得点者が優勝。

さらにシリーズ後半戦にはオープン選手権12月10日、岐阜市民センターでのブッチャーとの公式戦で左肩を脱臼して途中帰国したハーリー・レイスが特別参加、シリーズ最終戦の5月13日、神奈川県川崎市体育館でレイスvsブッチャーのスペシャルマッチが実現します。

オープン選手権で日本人対決、外国人対決のファンの反応の良さに気を良くした馬場が出し惜しみせず総当たりリーグ戦で対抗し、新日本プロレスと興行で勝負に出ました。

日程も4月2日の開幕戦〜5月13日の最終戦まで全く一緒、興行数は新日本プロレスが33大会に対して全日本プロレスが38大会と全日本プロレスが上回りました。当時は興行数も人気のバロメーターで互いのフロントが競い合って売り興行の数を増やしていました。

日程のニアミスは川崎市体育館が新日本は開幕戦の4月2日で全日本が最終戦の5月13日、高松市民文化センターが先攻の全日本が4月21日で後攻の新日本が5月7日で新日本はテレビ中継あり。東京の大会場は先攻が全日本の5月1日、日大講堂で馬場vs鶴田東都初シングル、大木vsブッチャー2大公式戦。後攻の新日本プロレスは5月11日、東京体育館での優勝決定戦と「春の本場所」が同趣旨の内容の大会で真っ向からぶつかり合うことになりました。
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