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2022年07月20日06:02

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ストロング小林さん追悼(194)

76年新日本プロレス「ビッグ・ファイト・シリーズ」開幕戦は2月20日、猪木の33歳の誕生日に、新日本旗揚げの地である大田区体育館(テレビ生中継、観衆2,900人発表)で行われました。

メインイベントは8か月ぶりに西ドイツ武者修行から凱旋帰国した木戸修が猪木のタッグパートナーに抜擢されてグレート・ゴリアス&ブラック・ゴールドマン組のレッド・デビルスと対戦。

木戸はカール・ゴッチ直伝のグラウンドでレッド・デビルスを追い込んでいきましたが、タッグワークでは海千山千のレッド・デビルスが上。コーナーに捕まり2人がかりでの反則攻撃、マネージャーのマンマウンテン・カノンのアシストもあり、1本目は13分33秒、2本目は3分27秒、日本組が2本とも反則勝ち。スコアの上では2−0のストレートで猪木&木戸組が勝ちましたが、内容ではレッド・デビルスの小狡い反則殺法に押され気味で、木戸にとってはやや屈辱の凱旋マッチとなりました。

レッド・デビルスは私が子供の目で見た率直な印象はカール・フォン・ショッツ&クルト・フォン・ヘス組、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ組のハリウッド・ブロンドス程のインパクトはありませんでした。

セミファイナルは坂口征二と初来日のロン・スターのシングルマッチ、初来日のスターは星条旗をモチーフとしたコスチュームでまだ初々しいイメージ、とても2年後に「カネック敵前逃亡事件」のカネックいじめの首謀者になるような根性の悪さはこの時点では想像もつかないです。

体格差のある坂口が7分50秒、ジャンピング・ニーアタックからアトミック・ドロップを決めて体固めでフォール勝ち。

先シリーズ、新北米タッグ王者となったストロング小林はセミ前に出場、同じく初来日のマイク・スターリングスとシングルマッチで対戦、スターリングスは風貌はジェリー・オーツに似た感じの正統派テクニシャン。

8分21秒、逆エビ固めでS小林がギブアップ勝ちを収め、開幕戦を白星で飾りました。テレビ生中継はこちらの3試合。

ドン・セラノは永源遙を6分2秒、逆さ押さえ込みで破っています。

このシリーズから山本小鉄の試合出場が本格的に減少していきました。小鉄は前75年の同時期開催の「ビッグ・ファイト・シリーズ」でも4試合しか出ておらず、猪木から干されかけましたが、次の「第2回ワールド・リーグ戦」から通常通りにカムバックしています。

小鉄は新日本プロレス創業メンバーとして同社の取締役でしたが、翌73年に代表取締役副社長として入ってきた坂口と社内での折り合いが悪く、また「若手への小遣い」を会社の経費で落としていたこと、真面目、努力家といったイメージとは裏腹に豊登の影響でギャンブル好きが高じて会社の資金につい手を出してしまったことなどで猪木、新間寿とも溝が出来てしまいました。

時期は不明ですが、小鉄は現役の第一線から退く代わりに道場を任され、道場主として若手の指導に当たることになりました。出場試合数の激減、3年後の79年3月には現役のままテレビ解説者となり、次の80年4月には38歳の若さで引退しているところから見てこの周辺に発覚した出来事だと思います。

第2戦、東京・三鷹市大成高校体育館(観衆1,800人発表)大会でS小林はメインイベントで星野勘太郎と組んでゴリアス&ゴールドマン組のレッド・デビルスと初対戦。1本目は14分50秒、両チームリングアウトで1−1。決勝の2本目は6分40秒、ゴリアスが星野を体固め。2−1でレッド・デビルスが勝利を収めています。

猪木はセミファイナルでスターとシングルマッチ45分1本勝負で対戦、5分45秒、体固めで破りました。

2月25日、宮城県白石市民会館(観衆1,500人発表)でS小林はスターと初対戦し9分5秒にカナディアン・バックブリーカーでギブアップ勝ちしています。

2月24日付、ロサンゼルスの地方紙である「ヘラルド・エグザミナー紙」がプロボクシングWBA&WBC統一世界ヘビー級王者モハメド・アリと日本のプロレスラー、アントニオ猪木が6月に東京で対戦すると報じられ、2月26日、日本にもニュースが入って来ました。

ことの発端は前75年3月24日、74年10月30日、アフリカ・ザイール共和国キンシャサでジョージ・フォアマンに8ラウンドKO勝ちで絶対不利と言われた闘いを制し「キンシャサの奇跡」と呼ばれ世界ヘビー級王座に返り咲いたアリは、オハイオ州クリーブランドで、無名の世界ランキング8位、チャック・ウェップナーと初防衛戦を行い、ダウンを奪われるも15ラウンドTKO勝ちで初防衛に成功。(この試合をテレビ観戦していた当時28歳の無名時代のシルベスター・スタローンがインスパイアされて「ロッキー」の脚本を一夜にして書き上げたというのは有名な話)

この試合の後、アリは「次は東洋人とやりたい。俺と闘う勇気のある東洋人はいないのか!ボクサーじゃなくてもいいぞ、空手家でも柔道家でもいい。100万ドルので賞金を用意する」とアピール、当時の自民党衆議院議員で日本アマレス協会会長であった八田一朗氏がこの話を聞いて「これは面白い話」と動きました。

猪木は話を聞いて「俺が対戦したい」と名乗りを上げて、同年6月9日、マレーシアのクアラルンプールでジョー・バグナーと防衛戦を行う(試合は7月1日)時、トランジットで羽田空港に立ち寄ったアリに新日本プロレスの杉田豊久渉外担当が猪木の「挑戦状」を渡しました。

その時のアリの反応は「イノキ、フー?(誰?)」というものでアリ得意のジョークかと思われましたが、猪木はその後もエージェントを通してアメリカで交渉を続け、いよいよ、本当にアリとの対戦が実現することになった訳です。

日時は6月26日、場所は東京の日本武道館と発表されました。

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