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2022年03月07日00:00

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旧約聖書後半 特講(K-5)

【パリサイ人とサドカイ人】
歴史のこの時点で,重要なユダヤ人の2グループが出現した。どちらも起源や歴史については様々な説があるが,サドカイ人もパリサイ人も,ユダがセレウコスの強力なヘレニズム教育に抵抗していた時期に存在が知られだしたことは,多くの権威者が一致して認めるところである。ユダヤ人の分派はすべてがバビロニア捕囚の時代に端を発するが,ギリシャ人の圧力下で,二つのグループが目立って重要なグループとして浮上し始めた。(後に述べる)ハスモニア家の反乱が終わる時代には,両方の教派が強力なライバルとなっていた。
パリサイ派の元となった教派は,恐らく「聖なる人々」を意味する名のハシディーム派であろう。この教派はユダヤ教の儀式の遵守と,エズラの時代のトーラーの研究を重視した。その中には,周囲の人々の汚れから自分を隔て,律法の解釈に厳格に従う,という誓いを立てた人々がいた。ハシディーム派は記録された聖典であるトーラーを自分たちの宗教の基盤として正当と認めただけでなく,それを背景に拡大して古い規範を新しい状況に当てはめようとし,律法をより比喩的に解釈した。その解釈が大半は暗唱され,口承されたので,口承律法として知られるようになった。ハシディーム派は選択の自由と予定説の結合,死者の復活,来世における報いや罰の裁きを信じていた(『ユダヤ百科事典』「パリサイ人」の項参照)。
ユダヤ風の伝統的な価値観が次第に失われていくことに危機感を持った人々は,自分たちの宗教の擁護に熱心な唯一のグループと見えたハシディーム派に,ますます心を寄せるようになっていった。このハシディーム派の周辺に,モーセの律法の擁護に挺身する一大グループが形成され始めた。彼らはギリシャの影響に対抗して,かたくななまでの厳格さでモーセの律法に従った。このグループは偽りの思想という世の汚れから離れようとしたので,「分離された」という意味のヘブライ語のパールスを語源とするペルシームと呼ばれ始めた。ここから,ペルシームのギリシャ語の音訳であるパリサイという名が生まれたのである。
パリサイ人は大多数の住民に歓迎されたため,サドカイ 人よりはるかに大きなグループとなり民の支持も得て,そ の状態は救い主の時代まで続いた。
パリサイ人は一般人を主体としていたが,サドカイ人は祭司,商人,貴族など社会の上層階級から成っていた。この宗派の名称(ヘブライ語でザドキーム)は,恐らくダビデ王の時代の大祭司ザドクに由来したものであろう。エゼキエルは神殿の管理をザドクの一族に委任し(エゼキエル40:46;43:19;44:10-15参照),この一族の子孫は紀元前200年ごろまで神殿業務の管轄権を持っていた。サドカイという呼び名はザドク人に好意的な人々のことを指すものであった(『ユダヤ百科事典』「サドカイ人」の項参照)。ギリシャ文化を受け入れたのが主としてこの富裕層だったため,サドカイ人は一般大衆に人気がなかった。
この宗派は全体から見て保守的であった。サドカイ人はパリサイ人と違って,トーラーに忠実に基づいている部分以外は口承律法に束縛されるのを拒否した。さらには死後の命を信じず,そのため復活も否定した。律法を守る目的はこの世で神の助けを得ることにあった。彼らの神学は神を人のレベルにおとしめる傾向があり,礼拝は人間の君主にささげる忠義の誓いとそう変わらなかった。律法は厳密に解釈すべきで,パリサイ人が好んだ象徴的,比喩的解釈は許されなかった。
この二大勢力のせめぎ合いの中から正式なシナゴーグの礼拝が発祥した。パリサイ人は,祭司による神殿の独占的な支配に立脚したサドカイ派の宗教的権威を低めようとした。彼らはサドカイ派の支配力をそぐために,以前は神殿でしか扱われなかった祭の幾つかを採り上げて家庭で行うことを主張した。また,自分たちの教義を広め,末代に伝えるために,正式な礼拝の場であるシナゴーグを建てた。このようにして,祭司の子孫以外の学者が,国民の宗教行事の中で役割を担い始めたのである。

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