mixiユーザー(id:3341406)

2020年10月12日11:00

575 view

浜松市中心部からの散策〜家康ゆかりの3寺 他

10/7(水)、シネマイーラ浜松で『ぶあいそうな手紙』を観たあと、中心市街地から広沢辺りを散策してみる事とした。少々雨が降ったり止んだりする中、傘を差しながら歩いた。

浜松城公園北側の細い道を西へ行くと、姫街道の下をくぐる小さなトンネルがある。
フォト

1964年迄走っていた遠州鉄道奥山線の「亀山トンネル」跡である。
1914年スタート時は浜松軽便鉄道と称して、蒸気動力による軽便だったが、1929年からは内燃動力併用、1947年には遠州鉄道と合併し、1950年から部分的に電化が進んだ。
当時、トンネルの向うには広沢駅があった。
現在は公園化されていて、上手にある高校の生徒達が自転車のスピードを上げてスイスイ走って来る。車は通行禁止。
トンネルは鹿谷町にあるが、その向こうは広沢1丁目。
この辺は三方原台地の南縁で山谷が多い。鹿谷という名前もそんな自然を表している。

トンネルを出た所で一旦国道257号線(姫街道)に上がる。姫街道は山の尾根を通って北上している道だと理解できそうだ。
ここは普済寺の北の裏手になる。
普済寺にはあとで寄る事にして、立派な住宅やマンションが建ち並ぶ坂道を曲がりくねって西へ行くと、西来院(せいらいいん)の前に出た。
フォト

フォト

柴の垣根は珍しい。
曹洞宗の寺院で、正確には高松山(こうしょうざん)西来院と言う。1428年、華蔵義曇(けぞうぎどん)禅師の13人の弟子の内の1人、月窓義運(げっそうぎうん)禅師によって開山された。
本堂は戦災で焼失、のちコンクリートで造られたモダンなデザイン。
フォト

ここには徳川家康の正室 築山御前(1531?/45?/43?-79)の廟「月窟廟」があるというので、昔から行ってみたいと思っていた。
フォト

この廟も焼失し、1978(昭和53)年、築山御前400年忌に再建されたもの。
自由に中に入る事ができる。
フォト

「清池院殿譚月秋天大禅定法尼」と法名が彫られている。
築山御前の悲劇はどなたもご存知だろうが、一応触れておく。
諸説あるが、ここでは寺の説明板の通りとする。
「(前略) 同盟関係にあった織田信長と徳川家康両者間における政治的駆引と、岡崎城内における派閥抗争など、複雑に交錯する政治的、人間的関係のひずみのなかで、遂に夫である家康により殺害されていった。力において優れていた信長の命令とはいえ、三河のため、徳川家康安泰のために屈服せざるを得なかった家康の苦悩もさることながら、あまつさえ身に覚えのなき謀反人の汚名を着せられて、一人淋しく浜松の地に散華した御前の姿を想うとき、いかに戦国乱世とはいえ、余りの痛ましさ、果かなさに涙を禁じ得ないものがある。
(中略)御前三八歳。家康これを哀れみ、湯翁禅師に命じて懇ろにこの地に葬らしめた。」

西来院の墓地は、深々とした林の中にあり、何処迄歩けばよいのか心許ない程だった。

西来院を出て、更に西へ、やはり道は曲がりくねって上り下りする。
途中で広沢を出て蜆塚1丁目に入った。
程なく着いたのは、宗源院の入口、やはり曹洞宗の禅寺である。
フォト

正確には宝蔵山(ほうぞうざん)宗源院。
入口の坂を上がると本堂がある。
フォト

やはり、西来院で紹介した華蔵義曇の13人の弟子の内の1人、在天弘雲和尚が1416年に開山したと言われる。
戦国時代には今川氏の庇護を受け、特に義元は堂宇の再建整備、他寺領の寄進等をした。
そんな訳で、本寺には義元・氏真親子が与えた判物(寺領の安堵)があり、浜松市の文化財に指定されている。
墓地には、家康の家臣 成瀬正義の墓他がある。成瀬は、三方ヶ原の合戦の折りに家康軍の旗奉行で、武田方が家康本陣に攻め入った際、家康の身代わりとして討ち死にしたと言われる。
今回は判物や墓を確認する事はできなかった。

フォト

境内には大変立派な鐘楼があった。
大晦日等、鐘の音が陰々とここらの谷間に響く事だろう。

宗源院を出てまた坂を上り下りする間に、いつの間にかまた西来院の前に出、更に坂をどんどん下っていくと、広沢1丁目の普済寺総門前に出た。
フォト

中に入ると朱塗りの山門がある。手前に見える小さな石の太鼓橋は雲夢橋。橋が跨ぐ小川は埋められて、今はない。
フォト

左手には大きな寺営の幼稚園。
本寺は正確には広沢山(こうたくさん) 普済寺、やはり曹洞宗の寺である。
開山は鎌倉時代、当初は別の場所にあって名も違ったが、1432年、既出の僧 華蔵義曇が中興開山し、場所と名を現在のそれに変えた。
普済寺は西遠江では絶大な力を持ち、曹洞宗寺院の中心的存在だった。
先に述べた通り、華蔵義曇の弟子等が、西来院,宗源院を作ったのである。弟子の13人13派は460寺を持つ迄になったと言う。
戦国時代には徳川家康が帰依し、三河から遠江侵攻の際にはここを本陣とした。しかし、三方ヶ原の戦いで武田方から敗走する時は、浜松城が炎上していると見せかけるため、自らこの普済寺に火を放ったと伝えられている。
その後、1582年、詫びのつもりか、家康は本寺に七堂伽藍を造営した。
それらは1945年の浜松大空襲によって焼失してしまった。
現在の本堂はコンクリート造り。
フォト


この辺りの現町名「広沢(ひろさわ)」は、古くは北西に接する富塚村の一部で、大字「沢」と言った。前述の如く、山谷の多い地形から名付けられたのだろう。
そして、地域最大の寺 普済寺の「広沢山(こうたくさん)」とくっつけて「広沢」と改められた、そう伝えられている。

帰りは、また歩いて市街地に戻り、循環バスに乗って家に帰った。
当日はよく歩いた。万歩計を見ると約17,000歩だった。しかも坂道が多かったせいで、股関節が痛くなった。
しかし、歩く事で、浜松の中心部近くの方向感覚や地形が体に沁みて理解された。姫街道は日頃マイカーやバスで通っているのだが、車中では土地の高低等よく分からないものだ。

最後に付け加えておくが、当日は行かなかったけれども、普済寺,西来院,宗源院の北側の新しい道を西へずっと下っていくと、佐鳴湖にぶつかる。
佐鳴湖の手前には西部医療センターがあるが、その駐車場の隅に「太刀洗(たちあらい)の池」という史蹟がある。
現在は富塚町内だが昔は小藪村と言って、名の通り薮に覆われた人通りのない場所だった。ここで、家康の家来が築山御前を待ち伏せした。2人の侍は御前に自害を迫ったが、拒まれたため首を斬って殺害した。その刀を洗ったのが「太刀洗の池」だとの言い伝えが残っている。
 
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年10月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031