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2020年05月04日11:00

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戦国時代へのタイムトンネル

「祝田(ほうだ)の坂」(または「祝田坂」)という名をご存知の方は極く限られるだろう。

私の住む団地の最寄りバス停の名は「祝田」ないしは「祝田南」である。
国道257号線(金指街道)を浜松市街から北上するバスがゆっくり上り続ける広大な「三方原台地」は、「根洗(ねあらい)」で終わり、そこからカーブを描く急な坂で下りていく。その先には、都田川が東から西(浜名湖)に向って流れていて、国道はそこに架かる「新祝田橋」の上を渡っていく。
根洗から下りていくその坂が「祝田の坂」である。
歴史上にもこの坂の名が出てくるのだが、それについては、地元でも知らない人が案外多い。徳川家康が武田信玄と戦って大敗を喫した「三方ヶ原の戦い」(1572/元亀3)、その戦に「祝田の坂」の名が出てくるのだが。

「三方ヶ原の戦い」が行われた場所が何処なのか、実ははっきりはしていない。「三方原台地」上であった事は間違いないが、ピンポイントレベルでは諸説がある。
これは、亡妻の墓がある三方原墓園前に建てられている「三方原古戦場」の石碑。
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この碑の説明板は、戦の場所を「ここ三方原の根洗付近」としているが、現状は特定しきれていないと理解した方が良さそうだ。

また、更に言えば、この戦がどのように始まって終わったのかについても、諸説がある。
通説では以下の通り、
「(天竜の)二俣城を攻略した武田信玄は、十二月二十二日早朝には浜松方面へ進軍、…中略…欠下(かけした)付近で三方原台地へ上ったという。…中略…追分(おいわけ)から祝田坂に至った付近で、追撃した徳川勢との間で合戦となった。すでに夕暮れ時、…中略…初めは互角の戦いであったが、やがて徳川勢が総崩れとなり、敗走したと伝えられる」。(『二〇一五年 徳川家康公顕彰四百年記念事業 浜松部会記念誌』)

信玄勢30,000人に対し、家康勢は織田の援軍込みで11,000人しかいなかった。(数にも諸説あり。)
これ程の差がある場合は本拠地に籠城するのが普通だ。何故わざわざ敵勢の前にのこのこと出ていってしまったのか、これにも諸説。
武田信玄は元々浜松城を落とすのが目的ではない、「西上」つまり京の都へ上るのが最終目的だった。
で、武田勢は三方原台地を南下して浜松城方向に向かうのでなく、西(一説、舘山寺にあった堀江城)へ進軍した。
若き家康(当時31歳)は驚き、そして腹を立てた(と想像されている)、即ち無視された、と。そして、武田勢の進む道として、「祝田の坂」を下るだろうと予想した、これを背後から襲撃すれば勝てる、と。
家康軍は急ぎ浜松城を出、三方原を北進したが、実際は予想と全く違った。老獪な信玄(52歳)にしてやられたと言っていいかもしれない、彼の大軍は「祝田の坂」の前(または三方原台地上の何処か)で完璧に陣形を構えて待ち構えていたのだ。
たちまち(日没迄の2時間程で)徳川勢は総崩れとなり、家康を筆頭に浜松城に逃げ帰った。死傷者も甚大であった。
浜松にはこの戦にまつわる面白可笑しい伝聞が様々に残されている。
その話をしだしたらキリがないのでやめるが、「祝田の坂」とは、このような場所であったのだ。

下は浜松市中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブに掲載されている『三方原絵図』と言われる古地図である。所蔵は浜松市博物館。江戸時代になってから作られたものだが、詳細は分からない。
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2213005100/2213005100200010/M19/
(↑拡大も回転も自在だ。)
中央少し上に「三方原」と大きくあって、その上に旗印と伴に記されているのが武田勢の陣営である。
その左側に、ひっくり返った文字で小さく「祝田の壱本松」と書かれている。

「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)」なるサイトを見ると、この古地図に分かり易く赤文字を入れている。
https://storage.bushoojapan.com/wp-content/uploads/2017/09/c252e1c386e6c3d259d96e6004343b3a-3.jpg
(↑こちらは拡大のみ可。)

この大雑把な古地図ではその場所はよく分からないが、私の住む場所から目と鼻の先である事は間違いない。
実は、現在国道257号線が三方原台地から下りる(車量も非常に多い)祝田の坂と、三方ヶ原の戦い時代の同名の坂は少々違っていて、後者は「旧祝田の坂」とか「祝田の旧坂」とか言って分けているらしい。

先人の発言をネット上で調べる等して凡その見当をつけ、普段は車で通行する坂を歩いて上ってみた。
普通、歴史的場所であるならば、何らかの看板や標識があってしかるべきだが、何もない。
が、しばらく見回しながら歩いて、リンゴ園の生垣の陰にとうとう小さな石碑を見つけた。「祝田坂への旧道」とある。
脇には、文字の擦れかかった板看板もあった。地元の人が手作りしたものだろう。
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その向い側には、用水の畔に「二代目根洗松」との新しい石碑と、大きからぬ松の木。
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雨の度に根が用水の水に洗われたためこの名がつけられたと言われる。
松の木と街道の角には別の石碑がある。
こちらは「根洗町発祥の松」と彫られている。
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裏を見ると、こう書かれている、
「根洗松は、三方原の北はづれにそびえる古松である。雨が降る度に根が洗われ根洗松と呼ばれるようになった。
鳳来寺街道に沿っているので、むかしから目じるしとなって旅人に親しまれたばかりでなく、この地に住みついた人たちにとっては心の支えであった。
里人、この古松の常に変わらぬ緑を仰ぎ、梢をわたる松風を励ましと聞いて、朝に夕になりわいにいそしんできた。そして、ようやく豊かに人家も増し、根洗町と名づけることとなった今、そのいわれを石に彫り、いつまでも伝えるわけである。
昭和51年11月吉日、三方原用水土地改良事業完成に伴い、町名を変更して建之。
 根洗町自治会 」。

話しが主題からずれた。

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リンゴ園の裏の斜めに走る道を北へ歩き、一旦県道に出てそれを渡ってU酒店の左の細い通りを入り、更に北へ。
民家の間を歩くうちに、家はまばらになっていく。先程の石碑以降、何も表示物はない。
畑の間に中電とKDDIの鉄塔。
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遂に、奥に光もあまり射し込まない森の入口に立つ。坂道はその間を下りていく。
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こんな道を、鎧を着けた3万もの武田軍勢が、果たして下っていけたろうかと思う。
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雨水を整流するための小石が並べてある。
何だか異なる時代に迷い込んだみたいだ。

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やっとで陽の射すコンクリートの道に出た。

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まるで白昼夢だったかのように、美しいシャガの花が辺りにたくさん咲いている。

旧祝田の坂を下りきった所は、国道257号線脇の窪地で、ここらは、我々「緑のリサイクルステーション」として使用している。
4〜5m上の国道を見上げると、そこには「祝田南」のバス停がある。
なんだ、こんな所に出てくるのか!と驚くばかり。
この停留所でいつもバスを乗り降りしているのに、全く気付かないとは、勘の悪い事だ。とはいえ、こちら出口側には一切表示もないのだから、分からなくとも仕方ない。

大分以前日記に書いたが、我が団地の中には古墳もあり、近くには井伊直虎の花押入文書を保存していた神社もあり、また、戦国時代へのタイムトンネルのような坂道もある。
なかなか面白いところだ。
 
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