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2019年05月30日13:51

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「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆへなり」

「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」『歎異抄』第十三条

 『歎異抄』とは、親鸞の弟子である唯円が、師の教えに誤解がないよう、親鸞の述べたことをまとめ、解説したものとされる。親鸞の教えとして有名な「善人なおもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉も、この『歎異抄』からの出典(第三条)である。
 書き物としては短く、さらりと読めるといえばその通りなのだけれど、実際には難しい。その難しさも、単に難解だからというわけではなく、人の心、あり方を衝くような言葉が散りばめられているからである。


 冒頭に記したものも、親鸞の言葉として『歎異抄』に記されているものだ。ここでは、「念仏を唱えさえしていれば、悪いことをしても浄土に往ける」といった言説を批判する声について、唯円が親鸞の教えをもとに解説している。
 唯円は、念仏を唱えていれば悪行も許されるという考え方はもちろん、善行を続けていれば浄土に往ける(善行をしなければ浄土に往けない)という認識も誤りだと述べている。

 つまり、善き心も過去の縁によって起こるものであり、悪い心も同様だというのだ(「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆへなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆへなり」)。

 冒頭の言葉は、それに続くエピソードによるものである。親鸞があるとき、唯円に「私のいうことを信じるか」と訊ねてきたので、「信じます」と答えたところ、「だったら千人殺してきなさい。そうすれば浄土に往けますよ」と言われた。唯円は「それは無理です」と返した。
 親鸞は「自分の思う通りにできるのだとしたら、千人殺すこともできたはず。それができないのは、そうする過去からの縁がなかったから」と説き、最初の言葉を述べるのだ。すなわち、「自分の心が善いから殺さないのではありません。また殺すつもりがなくても、縁がもよおせば、百人も千人も殺すこともあるでしょう」。


 この挿話は、少なくとも私に「その通り」とすぐに理解できるものではなかった。例が極端だからということもあるけれど、他方でオウム事件のように、そう言われて信徒がテロに及んだという事実もあるからだ。親鸞や唯円の想定を超えるようなことを、人はしばしば行ってしまう。

 また、人の行いをすべて過去の縁に求めるという考え方も、違和感がないといえば嘘になる。行動や判断に過去の経緯が含まれていることは否定できないけれど、その人の主体性を無視するのはおかしい。もちろんその主体性を構成するものもまた、過去の経験に依存しているといえば、その通りである。それでも、主体としての自我を消してしまうと、それによって生じた行動や結果の責任までなくなってしまいかねない。

 もちろん、親鸞も唯円もそんなことを言おうとしているわけではない。仮にそうだとすれば、念仏を唱えることも、仏に帰依することも説く必要がないからである。
 そうではなくて、「自我」というものを絶対視するあり方そのものを諭しているというのが、ここでの話と捉えるべきだろう。


 「わたし」というものの価値観、行動や判断もまた、自分だけで成り立っているわけではなく、たとえば家庭、友人、周囲の環境に多く影響を受けている。
 「わたし」などというものは実に曖昧で、病気や怪我をしたり、失敗を重ねたりしただけで弱気になるものだし、たまたま物事がうまく運んだだけで調子に乗ってしまう。同じ「わたし」でも、前者と後者で同じ物事に対して、同じ判断をするかというと、心もとない。

 無論、それで人格まで変わるということは、よほどのことがない限り、日常的には起こり得ない。けれども「わたし」というのも、人格の範囲内では常に揺れ動く存在であり、それは自分だけのことでなく、他者においても言える。
 他者をその一面だけから断罪したり、評価したりすることはもちろん、そう判断している自分もまた、絶対的なものと無意識に捉えてしまう。自省を込めて、親鸞や唯円の声に耳を傾けておきたい。
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