mixiユーザー(id:2502883)

2019年05月29日13:34

68 view

自助と公共のあいだ

 昨日の早朝に発生した川崎・登戸駅付近での殺傷事件は、社会的にも強いショックを与えるものだった。事件の背景などは、今後の捜査などである程度、明らかになってくると思われる。ただ、このような事件が繰り返し起こらないようにするにはどうすべきなのか、防ぐにはどうしたらいいのか、明確な答えは見つからない。


 児童に対する学校側の安全管理については、2001年の付属池田小事件を契機として、全国的に徹底していくようになった。具体的には、部外者による施設内への立ち入りを規制したり、集団での登下校やスクールバスの利用なども行われるようになっている。

 しかし今回の事件は、そのスクールバスに乗るために集まっていた児童が襲われており、安全管理の限界を示すものでもあった。仮に警察や行政機関の協力を求めたとしても、いつどこで起きるか分からないものを未然に防ぐことは難しい。
 つまり、公的なもの(行政や教育機関)が管理を徹底強化したとして、そのコストに見合うだけの安全が手に入るとは限らない。

 少し前までは、学童擁護員、通称・緑のおばさんが登下校する児童を見守る役割を果たしてきた。地域によるけれども、この人たちは自治体の職員である場合も少なくない。ただし、少子化と財政難からその数は年々減ってきており、廃止されたところもある。かわりにPTAなど保護者によるボランティアで見守りが行われているところもあるけれども、共働きが一般化していくなかで、実施が難しくなってきてもいる。

 そうなると、各家庭で子どもの送り迎えということになるかもしれないけれども、学校前が朝夕、自動車の列をなすというのは近隣からの苦情にもなり得る。実際、幼稚園や保育園の設置反対も理由の一つは交通事情が挙げられる。


 このように、地域社会や個人レベルでの努力にもまた、限界がある。もっとも、地域や近所づきあいが、公的、私的なものの間隙を埋めてきたのに対して、近年はそれが薄れてきており、その結果として社会が不安定になってきているとの指摘もある。

 こうした見方は傾聴に値するものの、核家族化、過疎化、高齢化が進むいまの世の中において、近所づきあいそのものが難しくなっている状況もある。私の郷里にしても、昔ながらのご近所さんは激減し、周囲は駐車場と空き家だらけになっている。横浜にしても、タワーマンションが林立して、誰がどこで暮らしているかなんて分からない。


 一般的に、日本社会は「お上意識」が強く、何でも行政に頼りがちと捉えられてきた。いまの世の中が混乱しているのは、政治や行政の仕組みやはたらきが悪いから、というのも、裏を返すと政治や行政の役割に強い期待があるからなのだろう。

 しかし、今回のような事件を目の当たりにすると、たとえ警察や行政のさらなるはたらきを求めたとしても、いきなり刃物で切りつけてくる相手を完全に排除することはできないと痛感させられる。

 では自助努力によって、子どもや家族の安全は守られるのだろうか。ひところ、「自己責任」という言葉が流行ったけれど、これも周囲の環境が個々人の振る舞いをある程度、許容できるだけの余裕があってこそ、機能する。法や秩序のないところでの自己責任は、必要条件ではあっても、安全を確保する十分条件にはなり得ない。

 結局のところは、その両者を補完する社会の仕組みを再構築していくしかない。ただそれは、社会への積極的参加を促すというよりは、むしろそこで暮らすさまざまな人たちを許容する受け身的なものであるほうが、いまの世の中には適合的なのかもしれない。「〇まるしなさい」「〇〇すべきだ」よりも、〇〇であることを認めつつ、調和を図っていくかたちが、必要なのではないか。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する