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2019年05月01日14:49

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譲位、改元、君主制

 平成から令和へ。崩御によらない天皇位の変更は、光格天皇以来、202年ぶりのことであり、同じく崩御によらない元号の変更は、慶應から明治に改まる1868年以来のことになる。
 この明治改元の際、一世一元、すなわち天皇の在位中は元号を変更しないと定められた。この法的根拠は現在、元号法により定められており、今回の改元もまた、それに基づいている。

 昭和から平成の改元は、天皇のご病状が逐一報告され、自粛ムードに覆われるなか、崩御を伴い行われたもので、厳粛に受け入れるということはあっても、お祝いする雰囲気ではとてもなかった。
 これに対して、今回の改元は概ね好意的に受け止められた。「平成最後の〜」という枕詞をやたらと目にするようになり、令和が発表された一か月間はもとより、改元のタイミングが十連休の中日ということもあって、ちょっとしたお祭りムードになっている。

 この雰囲気を目の当たりにして、「ひょっとしたら、大日本帝国憲法の発布が伝えられてのお祭り騒ぎも、こんな感じだったのかな」と思った。いわゆる近代の国民意識は、対外戦争や宗教の力を通じて形成されていったと言われる。ただ、徐々に発達していったメディアを通じて、憲法発布が何なのかはよく分からなくても、とりあえずめでたいことだと沸き立つ空気、ハレの空間というのは、より自然なかたちで共同体の一員としての自覚を促すものだったといえそうだ。

 今回の譲位改元は、皇室典範の特例法、つまり法的には今回に限定されたものである。ただ、このようなハレの空気を生んだ「先例」が、今後も踏襲される可能性は十分にある。もちろん突き詰めていくと、これらのことは憲法との整合性も問われかねず、今後は時間をかけて慎重に議論をすることも求められる。

 一方で、メディアも含めて歓迎ムード一色の状況に違和感を抱く人もいる。国民意識というものと民主主義は決して相容れないわけではないけれど、それが行き過ぎると同調圧力や排他性が強まる懸念もある。
 私はこの違和感も大切にしなければならないと考えている。それは天皇制に対する支持、不支持というだけでなく、ナショナリズムのあり方についてバランスをとるためには、こうした見方も必要だと思うからだ。


 先の天皇は、「象徴」であることを強く自覚され、ご自身の意思によって行動し、発言もされてきた。こうした姿勢が多くの人たちに敬意を抱かせるもととなったのは言うまでもない。ただこのことは、言い換えれば天皇という地位や制度そのものも、そのときどきの人格に依存しかねない危うさもある。もちろん、近代の君主制は、制度だけでなく、「開かれた」イメージを伴わなければ維持は難しい。

 ただ、君主制がその人格に強く依存するのは、国家全体のシステムにとって大きなリスクともなり得る。たとえば、日本でいうと摂関政治や院政、あるいは室町期の幕府政治などは、天皇の権威を簒奪したものと批判的に捉えられることもある一方、そうしたリスクを抑制するはたらきを持っていた。少なくとも、摂関や治天の君、将軍たち当事者の意識は、そちらの方にあったと思われる。

 それゆえに今回の譲位についても、先の天皇のご意思と制度としての整合性について、多くの時間を費やした。多くの人たちに、好意的に受け止められているのも、ご意思を尊重した上で制度に基づいた譲位、改元が実現したからだろう。
 私は、たとえば同時代の大統領制と比べても、象徴的な君主制が時代遅れだとか、劣ったものとは考えない。特に分極化が進むいまの状況で、たとえ選挙で選ばれた指導者であっても、その行動や発言がさらに国家の分断を招くこともあるだろう。そういう点で、原則として政治に関与しない象徴がいることは、共同体の維持にとって意味のあることと考える。
 しかしすでに述べてきたように、そこにもリスクは存在し、システムとして維持するコストも大きくなってきている。それを踏まえた共存のあり方について、国際的な思潮も踏まえながら、考える時代になっている。
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