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2019年02月11日13:05

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佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』(中公新書、2018年)を読む

 佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』(中公新書、2018年)を読む。佐藤先生の本は、先に『剣と清貧のヨーロッパ』(中公新書、2017年)を一年ほど前に読んでいる。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1964683389&owner_id=2502883

 『宣教のヨーロッパ』は、その姉妹編、あるいは世界編というべき内容になっている。

 副題「大航海時代のイエズス会と托鉢修道会」というように、アジアや南北アメリカへの宣教をテーマとしているものの、前半は宗教改革を受けてカトリックがどのように体制を刷新したかにページが割かれている。一般的に、宗教改革はプロテスタントの視点から、教会の堕落を刷新する目的で描かれがちである。しかしここでは、宗教改革の影響は否定しないものの、カトリックの自発的な内部改革としてこれを描いている。「カトリック側からの改革のそのものの動因は、ルターへの反動より遥かに深いところに根ざした意思に発していた」(p.34)という文中の言葉がそれを表している。

 そうした改革から生まれたものが、イエズス会であった。イエズス会は、その会士たちに観想、すなわちキリスト者としての課題を熟考することを求めた。それが会士になる前提であり、のちに述べる世界規模での宣教でもその手法が用いられた。
 さらに世界情勢の変化と航海術の発達に伴って、イエズス会士たちも南北アメリカ、アフリカ、アジアへと足を運び、キリスト教を広める役割を果たした。これによる功罪は、確かにキリスト教に救いを求める多くの信徒を獲得することになった一方、スペインやポルトガルの海外「侵略」を正当化し、虐殺や搾取を助長したことも否定できない。

 これについては、イエズス会やそれに続くドミニコ会、フランシスコ会に代表される托鉢修道会も無策ではなかった。後半は日本における宣教について章立てて触れているけれども、自らの文化や風習を押しつけるのではなく、その地域ごとに順応するかたちで信徒を獲得するように方針を変えていった。
 イエズス会や托鉢修道会は、質素な木綿の僧服で、自ら都市に出て祈り、教え、信徒からの寄付で生活を成り立たせてきた。ヨーロッパでは、教会から出ず、高価な衣服を身にまとい、ふんぞり返っている司祭への反発が、宗教改革やカトリックの改革につながっていたから、その姿勢は大いに受け入れられていた。
 しかしそれがヨーロッパ以外で常に受け入れられるわけではない。違和感や嫌悪感を抱かれ、信徒獲得が困難になる場合もあったからである。日本でもそのため、領主と面会する際には、絹の僧服に改め、神学校や病院の設置を進めて、人びとから受け入れられるよう努めている。

 もっとも、そのための資金調達には常に苦労を伴った。ローマなどからの資金援助も、航海のトラブルなどから途絶しがちであり、信徒の寄付だけではとても布教できない状態にしばしば陥っている。加えて、日本では禁教令が段階的に強化され、イエズス会と托鉢修道会同士のいさかいも起こり、日本からの撤退を余儀なくされた。


 この本は、上述したように宗教改革とカトリックの改革を経て、イエズス会が登場し、他の托鉢修道会とともに大航海時代のなかで宣教を行っていったことを概説として明らかにしている。ただ、それぞれに情報量が多く、一定の知識を前提としなければ、内容を十分に理解できない面はある。
 一方で、日本における宣教については、イエズス会や托鉢修道会の側から状況を解説していて興味深い。日本近世の宗教史では、日本の史料に基づいてイエズス会の活動を描く場合が多く、その違いに気づかされることも多かった。
 イエズス会の活動は、日本の権力者から見た場合、ポルトガルの覇権と一致したものと受け取られがちで、それが禁教政策の要因にもつながっていた。しかしイエズス会とポルトガルの利害は必ずしも一致しておらず、他の托鉢修道会との関係も複雑であった。当事者たちの認識のズレが事態の展開(しばしば悲劇)につながったことも分かってくる。


 2017年は宗教改革500年という節目で、そこから16世紀前後の宗教史や近世日本とのかかわりについての本も、数多く出ている。これらの理解を進めるためには、関連書籍を読み込んでいくしかないのだろう。それだけ扱う範囲もその内容も広い分野ということができる。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/11/102516.html
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