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2018年01月14日16:33

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托鉢修道会と中世キリスト教のあり方について

 佐藤彰一『剣と清貧のヨーロッパ』(中公新書、2017年)読了。昨年末に、山本芳久『トマス・アクィナス』(岩波新書、2017年)を読んだ流れで、13世紀前半に登場した托鉢修道会についてもっと知りたいと思って購入した。


 もともと、キリスト教における修道会とは、人里離れた場所で主に祈りと自給自足の生活を続ける集団であった。都市に出て積極的に人とかかわることもなく、修道院のなかでひたすらに祈り、瞑想を行うことによって、神とともにあろうとする暮らしであった。こうした姿勢を「観想」という。

 こうした観想修道会に対して、12世紀初期に騎士修道会が登場する。この背景には十字軍の派遣があり、同様にイベリア半島(スペイン)の再征服、レコンキスタにおいても活躍した。
 騎士修道会は、キリスト教にとっても大きな転機となる組織だった。なぜなら、「異教徒を征服する」ということを教会として公認したわけで、こんにちまで続く宗教戦争の幕が開いたともいえるからである。
 しかしながら、十字軍の「失敗」を経て、その活動は縮小され、世俗化していくことになる。いまのドイツの淵源は、プロイセン公国にまでさかのぼるけれども、それを建国したのは騎士修道会のひとつドイツ騎士団である。


 一方、托鉢修道会は上述したように、13世紀はじめに登場する。これは、中世において既存の修道会(観想修道会)の規範が緩み、単なる荘園経営と変わらないあり方に対する批判から生まれたとされる。
 代表的なのが、アッシジのフランチェスコによってはじめられた、フランシスコ会。同じく聖ドミニコによってはじめられた、ドミニコ会である。

 両者に共通するのは、修道院でただ祈るばかりでなく、積極的に都市に出て祈り、人々の喜捨によって生活を成り立たせようとした。喜捨とは寺社に対する寄付行為であり、お布施と同義である。
 相違するのは、フランシスコ会がその活動をキリストの歩みをなぞるような、素朴な求道に徹しようとしたのに対し、ドミニコ会はむしろ都市において知識を積極的に取り込もうとした点にある。

 フランシスコ会の活動は、既存の教会がヒエラルキーに左右され、学究活動にばかり日々を費やすことへの反省、批判が含まれているといえよう。この点は、のちの宗教改革にも通じる視点が含まれているし、本来の意味での反知性主義(知識ばかりで頭でっかちになり、本来の信仰をおざなりにすることの疑問)的姿勢も垣間見ることができる。
 他方、ドミニコ会は、13世紀の都市が大学などの発展によって、富とともに知識の集積地になっていることを認識した上で、知識人をリクルートする姿勢をとった。ヨーロッパ中世後期の代表的神学者、哲学者に連なる、トマス・アクィナスやマイスター・エックハルトもまた、ドミニコ会の一員である。


 キリスト教の改革運動としては、のちの宗教改革(16世紀前半)に焦点が当てられがちである。しかしそれ以前にも、教会のあり方、祈りや生活のかたちに対して、疑問や変化を求める動きがあったわけである。
 それは、托鉢修道会のようなかたちになり、ローマ教会もこれを公認していく流れも生まれた一方で、たとえばカタリ派のように異端とされ、徹底的な弾圧を受けたものもあった。また、教会の秩序だけでなく、十字軍やイスラム圏からギリシア哲学が「再輸入」され、スコラ哲学など神学の再構築が行われたことや、都市文化の拡大という社会的変化という要因もあった。

 ヨーロッパ中世が「暗黒時代」であったという認識は、こんにちにおいて否定されはじめているけれども、それはキリスト教においても同じである。そして興味深いのは、同じ托鉢修道会でも、知性に対して異なる認識を持っていたということだ。信仰において、知性や知識、学究はどう位置づけられるのか。神とともに歩むのに、教会に対するややこしい手続きは必要なのか。難しい神学的知識は求められるのか。
 宗教改革でも問われることになるこれらの命題は、それ以前においても、キリスト教に対して敬虔であればあるほど、とりわけ改革者の頭を悩ませたのかもしれない。


補足:過去に、アッシジのフランチェスコの評伝を読んだ。それに触れる本を読むことで、数年前の記憶がよみがえる。こういうことも読書の楽しみである。信仰と知識、知性との関係はともかくとして。
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