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2019年02月09日15:11

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映画「夜霧の第二国道」の当時の珍しいポスター

 フランクの永井の「夜霧の第二国道」は1957(S32)年10月に発売されたSPレコード。実は翌月に発売された「有楽町で逢いましょう」よりちっとだけ早く出た。「有楽町…」と同時に発売されたのは「羽田発7時50分」もあり、これらいずれも大ヒットした。
 何といっても「有楽町…」でフランク永井の名が世に知れ、これはすごいぞ、ということで「歌手買い」に火が付き、デビュー当時までさかのぼって飛ぶように売れていったのだ。流行歌転向第1号の「場末のペット吹き」から「東京午前三時」と。
 「有楽町…」は映画が翌1958(S33)年開けに封切られた。これは計画されて上映されたものでヒットした。この成功におんぶして、ここで名をあげた歌は次つぎと映画化されていく。「夜霧の第二国道」は日活で制作された。日活の新星ダイナマイト・ガイ小林旭主役の娯楽映画だ。現在のテレビドラマの制作のような感じで撮影され「有楽町…」に続く形で2月に封切られた。
 映画のストーリーは例によってギャング、宝石、恋愛、ハワイと荒唐無稽なもので、かこつけたようにフランク永井の歌う「夜霧の第二国道」だけ(失礼)が見ものの48分もの。
 だが、当時の社会情勢では、こうしたものがそれなりに大衆娯楽として喜ばれたもので、それなりに映画館を潤した。
 映画のポスターを見てみると、広く世に知られた(?)フランク永井の顔も出ている左側のものと、もう一つの別版がある。こちらはフランク永井の顔はなく、小林旭のふんばっている顔が圧倒している。
 「夜霧の第二国道」はおそらくフランク永井の名を知るなら必ず連動して知っているに違いないほど知名度は高い。フランク永井ファンが多いあの台湾でも、多数のカバーが歌われているようだ。
 この歌については当「文四郎日記」でもたびたび話題にしているが、作詞はあの宮川哲夫作品。作詞は恩師吉田正で、名人寺岡真三が編曲している。「夜霧の」というフレーズは、1947(S22)年の松竹映画「地獄の顔」主題歌でディックミネが歌った「夜霧のブルース」が先にあるのだが、フランク永井の曲によって再点火されたように流行語となった。
 吉田正も宮川もフランク永井の中古車に乗って、実際の第二国道を走って確かめた。言ってしまえば第二国道は後の「国道1号線」なのだが、日本の産業の基盤となる輸送の要である国道が目まぐるしく建設され整備されていった。その戦後復興の建設を象徴するような名称。同時に来るべきマイカー時代を予言したような名称が、まさに時代を反映したものだった。
 これが当時の日本人に強い印象を残した。歌は「つらい恋なら…」という恋模様を歌っているが、サイドミラー、バックミラー、サインボードという洋物言葉が、スピード性やハイカラ性をかもしだして、夢を広げさせた。つまり、貧しい日本から大きく復興で未来にはばたくイメージを表した結晶であったのだ。
 宮川哲夫の歌詞をフランク永井が恩師吉田正のメロディーで歌う。流行歌は数々あったが、このコンビから出た歌が多くの人の胸を打ったのは、結果として社会を、時代をあざやかに切り取っていたからに違いない。
 SPレコードは、その後時代の要請を受けてステレオで吹き込みなおされた。CD化からストリーム化を経て耳に慣れているのは後者かもしれないが、今年発売された「日本の流行歌スターたち#1フランク永井」には最初のSP版が入っている。
 映画「夜霧の第二国道」はカットというか短いシーンがカラオケ映像や、フランク永井特集のときに使われたことはあるが、DVDとしてはまだ出ていないのではないだろうか。今月末に「有楽町で逢いましょう」はDVDがでる。「夜霧の第二国道」もぜひ発売してほしいものである。

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