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2019年01月11日23:03

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近世の都市と治水事業

 平安時代後期、ときの「帝王」白河法皇が「天下三不如意」と挙げたとされるものに、「賀茂河の水、双六の賽、山法師」がある(『平家物語』)。山法師とは、無理難題を強訴する比叡山の僧兵である。双六の賽は、サイコロの目のこと。そして加茂川の水は、大雨のたびに氾濫を繰り返してきた賀茂川のことである。逆説的に、これ以外のことで不自由はないという権勢を示す逸話ともされているけれど、賀茂川の決壊によって京が水浸しになるだけでなく、衛生状態の悪化など、その被害の大きさも示しているように思われる。

 そのため、古来から賀茂川(鴨川)の治水は、朝廷や幕府にとっても重要な事業であった。京では中世から近世にかけて、町衆の自治も発達していたので、公儀とともに、治水事業に当たっていた。
 近世は特に、治水や土木技術が進んだ時代だった。城下町を建設する際も、飲み水を確保することと、付近に流れる川の調整がまず行われている。江戸は利根川の流れを変えるための大工事を行っていたし、ほかの多くの城下町が川を利用しながら作られている。

 京の治水事業は、京都町奉行の指揮のもと行われていたと考えられる。橋梁やその付近の堤防について、公儀がこれを担っているのも興味深い。京の都市開発というと、豊臣秀吉が大々的に行ったことが知られている。しかしそれ以前はどうだっただろうか。橋の管理や付け替えなどは朝廷や幕府がこれを担っていたのか、あるいは有徳人(うとくにん)と呼ばれる富裕層が行っていたのか。

 近代になるまで、河川の管理はすべて公儀(行政)が行っているわけではなく、近隣の町衆が監督責任を負っていた。これは江戸も同じで、河川に沿って店を出す許可を与える一方で、堤防の管理などが町衆に委ねられていた。

 この図面から、少なくとも18世紀には近世的な河川管理が京の街では行われていたことが分かる。日本の人口は、17世紀から18世紀にかけて倍増し、特に18世紀にはさらに人口増が加速したという推計がある。都市に暮らす人びとも増加していたはずで、治安維持とともに治水事業もまた、生活の安定には不可欠なインフラだったと考えられる。

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