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2019年01月05日19:17

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坂井孝一『承久の乱』(中公新書、2018年)を読む

 今年、最初に読み終えたのは、坂井孝一『承久の乱』(中公新書、2018年)。承久の乱とは、1221(承久3)年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権・北条義時を追討する院宣を出したことをきっかけとして、幕府と朝廷の間で戦いが起こり、幕府側が勝利した出来事である。

 かつては、後鳥羽上皇が鎌倉幕府そのものを倒そうとした、倒幕運動として理解されてきた。そのため、三代将軍の源実朝に不相応の官職を与え(官打ち)、その凋落を期すなど、最初から武家政権打倒を目指していたと考えられていた。
 しかし近年、後鳥羽上皇は源実朝を高く評価しており、実朝もまた、後鳥羽に敬意を抱いていたことが明らかになっている。実朝が将軍である間、朝廷と幕府の関係はむしろ蜜月のうちにあったのである。
 変化があったのは、その実朝が暗殺されてからであった。後鳥羽は信任していた実朝を守れなかった幕府に対する不信感が募り、その主導的立場にあった執権・北条義時の排斥を目論んだのである。

 後鳥羽も、かつては無策なまま幕府と戦い、返り討ちにあった暗君というイメージがあった。しかし、院宣は義時の排斥であって幕府そのものを滅ぼす意図はなく、有力御家人を味方に引き入れようとするなど、幕府内の分断工作も行っている。彼らの多くは在京御家人(幕府の御家人で、京都に在住していた人びと)だったり、その過去があったりしたので、朝廷や上皇とも近しかった。初動としては、悪くない対応だったといえよう。

 それがうまくいかなかったのは、義時の排斥を武家政権存亡の危機と捉え、東国の御家人の支持を集めた幕府首脳の迅速な行動だった。意図的かどうかはともかくこれが功を奏して、御家人の多くが一致して旗のもとに集まったため、後鳥羽の思惑は裏目に出てしまった。
 幕府首脳は、加えて十分な恩賞を約束したから、実利的にも多くの御家人は義時側に加わることになった。

 この点、後鳥羽は御家人の支持を得られないでいた。それはこの時代の治天の君、すなわち天皇家の家長がどういう存在だったのかを理解する必要がある。この本ではそれゆえに、平安時代後期の院政開始から筆を執っている。政治的にはもちろん、文化的にも朝廷を支配した「帝王」は、武士の支持をことさら気にする必要を感じなかった。彼が命じれば、臣下はそのように動く。それこそが治天の君だったからである。

 御家人の支持を集めるべく、対応した幕府側が勝利し、「帝王」たる後鳥羽が敗北したことが、日本史的にどのような意味があったか。この本は、承久の乱後の政治にもページを割いている。
 ここで触れられているのは、「撫民」、すなわち民政の思想が広がっていったということである。たとえば、承久の乱以前は、鎌倉将軍の実朝ですら、民衆の困窮や飢饉を憂いても、和歌を通じて天に祈ることくらいしか、行っていない。これは何も実朝が無能だったからというわけではない。この時代、政治に君臨する者の務めは、何よりも年中行事を滞りなく行うことであった。それは「帝王」たる後鳥羽の立場からするとなおさらだった。
 しかし、御家人の支持が幕府の存立基盤ということが自明になれば、指導者たちの視線に民衆が入っていくことも不自然ではない。飢饉に際しても、幕府は稲の貸しつけなどを行い、民政に少しずつ関与していく。


 こうした日本中世における「撫民」政策の広がりは、近年の研究で特に注目されているところではある。ただ、こうした転換が時代のなかで直線的に進んでいったわけではないことには注意を要する。
 というのも、鎌倉幕府はこののち、御家人の連合政権から北条得宗(北条氏嫡流)による専制へと転換していくからであり、また全国政権への歩みのなかで自壊してしまうからである。「撫民」は一進一退を続けながら、中世後期、そして近世において根づいていく。それには長い時間を要した。
 けれども、その一歩を踏むきっかけが承久の乱という幕府にとっても最大級の危機にあったという理解は間違いではない。

 なお、この本で興味深いのは、三浦義村の活躍に着目している点である。三浦氏は幕府創業を支え、北条氏に次ぐ権勢を誇る一族であったが、義村の次の代、泰村のときに宝治合戦で滅ぼされた。承久の乱でも、泰村の弟、胤義が朝廷側について敗死している。
 それゆえ、三浦氏は潜在的に反北条勢力のように見なされがちだけれども、義村はむしろ常に北条氏を支持する立場にあった。それは、一族の和田義盛が反乱を起こしたときでも、直ちに北条氏支持に回り、承久の乱で実弟の胤義から朝廷側につくよう誘いがあっても、翻意しなかったことからも明らかである。
 こうした有力御家人の結束が、幕府の勝利につながった。義村は戦後処理でも重要な役割を担っている。

 承久の乱後の朝廷はどうだったか。「帝王」なき朝廷は、幕府に主導権を明け渡さざるを得なかったことは確かだけれども、西園寺公経、九条道家など、ひと癖もふた癖もある貴族たちがいたことも忘れてはならない。彼らは北条氏とも親しく、道家に至っては摂家将軍・頼経の父であり、天皇の外戚でもあったから、摂関政治の再来とも呼べるような権勢を朝廷内で確立していた。
 しかし、その権勢も幕府の後ろ盾があるからこそというのが、彼の後半生、特に明らかになっていく。


 すでに見てきたとおり、この本は単に承久の乱だけにスポットを当てたのではなく、その背景と、朝廷と幕府の関係の変化について、やや視野を広げて描いている。そのため、鎌倉時代前期から中期にかけての良質な政治史、そして院政の特徴、この時代の王朝文化についても、これを理解する格好の一冊となっているように思う。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/12/102517.html
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