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2018年04月20日23:09

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大野和士指揮 都響第853回定期演奏会〜マーラー交響曲第3番/サントリーホール(その1)

(続き)

眼が芳しくない為、なかなか筆が進まず難儀している。

4/10、「ヌードNUDE〜英国テート・コレクションより」を観て横浜美術館を出たのは15:30頃だったか。随分時間をかけて堪能したのだった。
渋谷経由で永田町へ出、当日の宿泊ホテルにチェックイン、次のコンサートの為ひと休み。

サントリーホールで行われる東京都交響楽団の第835回定期演奏会は、開演19:00。
南北線を使うと、六本木一丁目駅からが近くて便利だ。

今回は大野和士指揮、マーラーの交響曲第3番である。
マーラーの交響曲は、東京文化会館における同じ組み合わせの第819回定期演奏会で、2016年12/3、第4番を聴いている。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1957173988&owner_id=3341406
私にとって、この2つの演奏会は直接のパイプでつながっている。

マーラーの交響曲は第2〜4番を「角笛3部作」と呼ぶ事がある。
この3曲は何れも自身の作曲した歌曲《少年の不思議な角笛》(1892-1901)から旋律を引用している。

更にまた、第3番と4番には太いつながりがある。
第3番は第6楽章迄ある長大な曲で、約100分もかかるが、当初は第7楽章も構想されていて、作曲も済んでいた。
最終的にはその第7楽章は外され、交響曲第4番の最終楽章(第4楽章)に使われる事となった。
そのため、第3番と4番では同じモチーフの使用が散見される。謂わば兄弟姉妹のようにしてこの2つの交響曲は生まれたと言っていい。

大野が第4番を2016年12月の都響定期のプログラムに入れた時、彼の頭の中には既に第3番の演奏は計画されていたであろう。

大野は、グスタフ・マーラー(1860-1911)を「近代と現代を結節する作曲家」と考えていて、こう言っている、
「都響にとってマーラーは礎です! 私はマーラーから派生していく、いわば未来の音楽と、マーラー以前〜過去の音楽を見つめながら、都響の財産となるレパートリーをつくっていきたいのです」。

また、本演奏会のパンフレットで、大野はインタビューに答え、マーラーを「予言者」と表現してもいる。マーラーは1911年、50歳という短命で没したが、「その先に起こる出来事を音楽で予言しているようなところがある」と。
1914年に勃発した第1次世界大戦は、近代科学を結集した大量殺戮兵器が初めて実際に使われ、ヨーロッパはその戦場となって膨大な死傷者を生んだ。
合理性や科学への信奉の上に成り立ってきたヨーロッパの伝統的価値観は瓦解し、この戦争の影響を受けて世界の4大帝国が滅びた。
マーラーはハプスブルクの長大な帝国の終焉とカタストロフをその目で見る事となったのである。

続けて、パンフレットから大野の言葉を拾うと、マーラーはシベリウス(1865-1957)に会った時、「私の交響曲は宇宙」だと言ったそうだ。
シベリウス等の民族主義に対比させてそう発言したのかもしれないが、また、単に大規模・大編成の曲というだけでなく、「大自然、天上の世界、宇宙……、マーラーは全てを(交響曲に)表現したかった」のだろう。

交響曲第3番は1892/95〜96年という、まさに世紀末の時代に書かれ、大編成でいながら室内楽的な要素をも持ち、歌曲的でもある。構築的でいながら、抒情的でもある。
後に知る事になるが、20世紀は、旧体制・旧社会を壊し、自然の野や山や海や川を壊し、動植物の生態系を壊し、そして神をも壊す事になる。ここで言う「神」は、自然神とキリスト教の神双方を含む。
この世紀末のシンフォニーは、20世紀のカタストロフィを先見しながら、失うであろう諸々のものへの愛着と郷愁に満ちて、バランスを失う程に混沌としている。

パンフレットでは、岡田暁生がそうした交響曲の性格について見事に表現している。
・・・・・・
ハンガリーの哲学者ジェルジ・ルカーチ(1885-1971)は近代小説のことを、「神なき世界の叙事詩」と呼んだ。古代ギリシアの(中略)ホメロスらの叙事詩は、世界のすべてを描き尽くそうとする。だが近代において世界はもはや、神が司られる調和したそれではない。既に壊れている世界を、それでもなお統一的なものとして提示するには、その矛盾に満ちた森羅万象を網羅し尽くし、内部に無数の矛盾と亀裂を抱え込みつつも、それらを「一つの」世界とする以外にやり方はない。マーラーはこの第3交響曲を「世界がそこに投影される巨大な交響曲」と語った。それはまさに、ルカーチのいう近代の叙事詩(中略)、近代小説である。
・・・・・・

マーラーはこの交響曲を作曲する過程で、その構成を比喩的に語っている。結局はそれらを副題として、また標題として使う事はやめ、出版譜からは全て削除、ただテンポや音楽的気分を表現するにとどめた。
例えば第1楽章は「力強く、決然と」のように。

時間と伴に変化したそれら副題らしきものを列記すると以下の通りである。

◆第1部
・序奏;「牧神(パン)が目覚める」または「岩山が私に語ること」
・第1楽章;「夏が行進してくる(バッカスの行進)」または「森が私に語ること」
◆第2部
・第2楽章;「野の花たちが私に語ること」
・第3楽章;「森の動物たちが私に語ること」または「夕暮れが私に語ること」
・第4楽章;「人間が私に語ること」または「夜が私に語ること」
・第5楽章;「天使たちが私に語ること」または「朝の鐘が私に語ること」
・第6楽章;「愛が私に語ること」

そして全体の標題としては、「幸福な生活〜夏の夜の夢」また「悦ばしき知識」「楽しい学問〜夏の朝の夢」、または「夏の真昼の夢」と、考えは変化していった。
「悦ばしき知識」とは音楽の標題としてあまりに無骨で唐突だが、フリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)に心酔した19世紀後半の先進的知識人にとって、それが彼の1882年の著書のタイトルである事は言わずもがなだったろう。
その中でニーチェは「神は死んだ」と主張している。

これら副題らしきものは、全て20世紀が失ったものと理解する事も可能だ。
第4と第5楽章に、マーラーは声楽を持ち込んでいる。つまりこの2つの楽章には詞としての主張がある。
第4楽章はニーチェの晩年の大著『ツァラトゥストラはこう語った』(1883-85)から、第4部第19章「酔歌」の一部を持ってきた。
『ツァラトゥストラ』は、前掲の『悦ばしき知識』の次の著作で、「神は死んだ」を展開している。

一方、5楽章は、自作歌曲《少年の不思議な角笛》から〈三人の天使は歌う〉を引用した。
その歌詞の原作はアヒム・von・アルニムとクレメンス・ブレンターノの採集したドイツの古民話で、ペテロの破戒をイエスが愛を以って許すという逸話からできている。
天国は天使の歌と幸福の鐘の音に満ち、その喜びは、イエスを通して、ペテロにも全ての人にも幸福への道として与えられる、と。
この精神は、交響曲第4番の最終楽章と全く同一である。
前掲のリンクから確認されたい。

どう考えても、第4楽章と第5楽章の詞の世界は折り合わない。ペシミズムまたはニヒリズムとオプティミズムの両極。何故これらが隣り合わせで構成される事となったのか、理解できない。
更に遡れば、第1部の序奏は「牧神(パン)」であったし、第1楽章は「バッカス(ディオニュソス)」であった。
パンは、言う迄もなく、キリスト教発生以前、ギリシア神話の世界の半人半獣の神である。
またディオニュソスは更に東方よりギリシアに到来した陶酔の神で、ニーチェは『悲劇の誕生』(1872)においてアポロンの理知の対局と主張した。

神々は自然・神羅万象の中に、何百も何千も存在した。一神教であるキリスト教は、それら全てを異教とし、異端とし、邪教として排斥しようとした。
第3交響曲に盛り込まれた宗教的世界のみをチャートで単純化すると、自然神の世界 → 「神は死んだ」 → キリスト教の古い民間説話、幸福に満ちた天国。
一体何だか判らない。
ある人はマーラーを、肥大した楽想を抑制もなく全て撒き散らした結果、簡潔さも形式もバランスも失った、誇大妄想狂だと言う。

そこで、岡田暁生の前掲の解説に戻るというのも手の1つだろう。キーは矛盾を全て抱き込むという事である。
他の楽章にある「岩山」「森」「野の花たち」「森の動物たち」は、「自然の無生物状態から始まり」、植物や動物等の生物の誕生を経、人間が生まれ、「ついに神の愛へと高まっていく」、「一つの巨大な叙事詩的プロセスを描くこと」と理解する事も、できなくはない。
もはや古典的な均整の取れた美の世界に集約できなくなった世紀末の人間、マーラーはその中にあって、20世紀のカタストロフを先見したのかもしれない。
しかし、岡田はパンフレットに書けなかった事を噛み殺しているようにも、私は思えてならない。

もう一度大野の言葉に戻れば、「マーラーは予言している」、「消えゆくもの、幻の世界をも予告していると考えられる」のではないか。

(続く)
 
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