(続き)
さて、マーラーの哲学(あるいは衒学)にはまり込み過ぎたようだ。
私としては、本質、即ち音楽についても触れておかなければならない。
各楽章を追って書いてみよう。
・第1楽章 力強く、決然と。
ニ短調、4/4、拡大されたソナタ形式による。
この楽章だけで30分以上かかる。交響曲の父ハイドンのそれなら、全楽章が入ってしまう程だ。
8本のホルンの力強い斉奏で第1楽章が始まる。当初は序奏と考えていたが、最終的には分離せず合わせて第1楽章とした。
このメロディは、ブラームスの交響曲第1番最終楽章の有名な旋律によく似ている。更に、ブラームスの旋律はベートーヴェンの第9番の〈歓喜の歌〉に似ているという人もいる。
マーラーはウィーンに出る前、1891年からハンブルク市歌劇場の指揮者をしていた。
ウィーンへ出る事は、自らの出世コースとして必須だと彼は思っていた。
当時のヨーロッパ音楽界は、ワーグナー派とブラームス派に分かれ、何かと対立し合っていた。マーラーは言う迄もなくワーグナー派に属していた。
にも拘らず、マーラーは1895〜96年(35〜36歳だった)、避暑地に滞在していた最晩年のブラームス(1833-97)を訪ね、知遇を得ようとした。
詳細は判らないが、ブラームスは「道徳的立場からの支援」を約束してくれたらしい。
マーラーの第3番交響曲は、その直近の1896年7月に完成している。6つの楽章の中でも第1楽章が最後となった。その冒頭にブラームスの交響曲第1番の有名なメロディに似た旋律を持ってきたというのは、ブラームスへの賛辞あるいは感謝を意味したのかもしれない。(決定的な根拠はまだ見つかっていないが。)
マーラーはユダヤ人である。
リヒャルト・ワーグナー(1813-83)は既に亡くなっていたが、彼の主張した反ユダヤ主義は、マーラーのウィーン進出を影日向で阻害していた。
そこでマーラーは重鎮ブラームスを頼ったのかもしれない。
翌1897年2月、更にマーラーはユダヤ教からローマ・カトリックに改宗している。
芸術だけでなく、世俗事にも存外長けていたマーラー像が見えてくるようだ。
これらが効を奏して、同年4月にウィーン宮廷歌劇場と契約、5月(10月説もあり)には音楽監督に就任する。
ブラームスは直前の4/3に亡くなっているから、彼の支援はぎりぎり間に合ったと表現をしてもいいだろう。マーラーは、ブラームスにどんな礼をしても足りない。
第1楽章の提示部には第4主題迄ある。普通のソナタ形式の倍である。
行進曲風の楽句も3つあり、軍楽隊や運動会のセレモニーを思わせる程通俗的な部分もある。
また、第4番,第5番交響曲でも繰り返し現れる、あの運命のモチーフを使った葬送行進曲。
各主題が様々に変形され、関係しあって、混然としたクライマックスを築く。
そして、ハープのグリッサンドのあと、短いコーダに入ってピュウモッソ、一気に劇的に終わる。
このコーダは短く簡潔で贅肉がなく、素晴らしい。
楽章を通して管楽器の活躍が目立つ。
・第2楽章 テンポ・ディ・メヌエット、極めて穏やかに。
イ長調、3/4、ロンド形式。
弦のピツィカートの上にオーボエがメヌエットの主題を奏する。時代違いかと思わせる程懐旧的ロココ風。
岡田暁生に言わせれば「甘ったるいサロン音楽」。
大野和士に言わせれば、力強く長大で混沌とした第1楽章のあと古いメヌエットに移る、その振幅の道程がこの交響曲の「キモ」になる。
・第3楽章 コモド(気楽な)スケルツァンド、急がずに。
ハ短調、2/4、複合三部形式。
ピッコロで始まる戯画的な村祭りのメロディは、例によって自作の歌曲《少年の不思議な角笛》から第11番〈夏の交代〉の引用である。オーケストラ演奏のみであるから、歌詞は使用していない。
深い森の雰囲気の中、木管類が小鳥等の鳴き声をところどころで挟む。
中間部では、「ポストホルン(郵便ラッパ)」が遠くから聞こえてくる。
ポストホルンは、元々の楽器編成表ではその通り書いてあるだけだが、バルブもないので大変演奏しづらく、現代では専らトランペットが代わって奏する。
大野も同様にしたが、彼はそこに独奏的な試みを加えた。
バンダ・オーケストラのようにトランペット奏者を1人舞台裏に隠し、そこで吹かせたのである。
しかも、その音が遠くからだんだん近づいてくる風情を出す為、サントリーホールのオーケストラの後ろに位置する2階席(「Pブロック」と呼ばれている)の背後中央、大きなオルガンが設置されているその左側の扉を、この楽章だけ開かせたのである。
奏者は隠れていて見えないが、多分吹く位置を遠くから次第に扉に近づける等して、遠近感の変化をつけたのである。
これによって、嵐と伴に郵便の信号ラッパが次第に近づいてくる様を表現したのだ。
扉を開ける事によって、微妙な変化が聴衆に伝わり、実に面白い試みだったと感心した。
・第4楽章 きわめてゆるやかに神秘的に、一貫してpppピアニッシモで。
ニ長調、2/2。
元譜ではアルトとなっているが、今回はメゾソプラノのリリ・パーシキヴィを大野は呼んだ。
パーシキヴィは、マーラー歌曲や交響曲での歌唱経験が豊富で、厚い信頼がある。現在はフィンランド国立歌劇場芸術監督でもあるらしい。
彼女が、先に述べたニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』の「酔歌」から取った詞をゆっくりと静かに歌うのである。
冒頭は、「おお、人間よ！注意して聴け！」。
「Mensch」の語尾のsch音は、これ迄接した複数のCDでは聞こえた事がない。
パーシキヴィの声の深さとその繊細な語感は、pppでいながら、得も言われず、一気に我々を惹き込んだ。説得力を以った囁きとして聴衆の耳に直に届く。
書くのを忘れていた、私の席は、1階センターブロック8列の20番。パーシキヴィの子音のニュアンスもRの巻き舌も、息を呑む程生々しく私の掌に降りてきた。
そして、続ける、
「世界は深い！
昼間が思っていたよりも深い！
快楽、それは心の苦悩よりも更に深い！
苦悩は言った、滅びよ！と」。
余談だが、アルトとコンサートマスターのヴァイオリンソロが囁き合う場面があるのだけれども、そのメロディはビートルズの《イェスタディ》の1フレーズとよく似ている。
「all my troubles seemd so far away」の部分。勿論、ポール・マッカートニーは、意識もせずにこれを作詞作曲したのだろが。
・第5楽章 快活なテンポで、大胆な表出で。
ヘ長調、4/4、三部形式。
ここでは、アルトに児童合唱と女声合唱が加わり、楽しき天国を歌う。
既に述べた、マーラー自作の《少年の不思議な角笛》の〈三人の天使は歌う〉の引用部分である。
冒頭の子供達による「ビム・バム」の4度音程の繰り返しは、鐘の音を表している。
そして歌い継ぐ、
「3人の天使が美しい歌を歌い、
その声は幸福に満ちて天上に響き渡り、
天使たちは愉しげに歓喜して、叫んだ、
ペテロの罪は晴れました、と」。
ここには、人間の生や宗教への懐疑などひとかけらもない。そういう意味では、第4楽章と第5楽章は完全に断絶している。
そうそう、サントリーホールのステージをご存知の方なら、合唱が何処の位置に置かれたのか首を傾げるだろう。
彼等彼女等は、先に触れたオーケストラの後ろ、2階「Pブロック」席に陣取ったのである。
・第6楽章 ゆるやかに、安らぎに満ちて、感情を籠めて。
ニ長調、4/4、変奏曲の要素を持つ自由なロンド形式。
ゆったりとした美しい主題が弦楽合奏のみで始まる。これと木管の加わった副主題が少しずつ変奏されながら、楽器も変化しながら、繰り返されていく。
うねるようにデュナーミクを変化させつつ、高揚しても、しかしテンポはそのままであくせくしない。
その滔々とした流れに乗せられ、聴衆は次第に忘我の境地に陥っていく。法悦と言うよりも、性的な恍惚の境地と言っていいだろう。
第1楽章第1主題のモチーフも顔を現す。そうして、次第次第に高揚し、いつしか弄ばれるかのように違う次元に運ばれる。
声楽はソロも合唱もこの楽章では座ったまま。パーシキヴィは目を瞑り、滔々とした抑揚に身を任せているかのようだ。
遂に金管も高らかに加わり、壮大なコーダとなって、ニ短調で始まった100分を超える全曲はニ長調で明るく壮大に締め括られる。
聴衆は、矛盾する混沌の大海の中でもはや身の置き場がない。
その矛盾を、ある人はブラヴォーを叫ぶ事で解消し、また、ある人は、呑み込んで、その身の重みを座席から解き放つ事ができない。
最後にデータを整理しておく。
◆東京都交響楽団第853回定期演奏会
公演 2018年4/10(火)19:00開演/サントリーホール
指揮 大野和士
独唱 リリ･パーシキヴィ(Ms)
演奏 東京都交響楽団/東京少年少女合唱隊/新国立劇場合唱団
(続く)
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