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2016年11月27日12:45

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革命とキューバ危機 米ソ、そしてキューバ

 戦後の国際政治において、核戦争に最も近づいた瞬間とされるのが「キューバ危機」である。アメリカの裏庭ともいえるカリブ海、ここに浮かぶ島国・キューバで革命を経て共産主義国家が生まれ、ソ連の支援によって核ミサイルが運び込まれていることが発覚した。アメリカ政府やCIA、軍首脳が驚愕したのも無理はない。

 アメリカ側は、ミサイル撤去をキューバ及びソ連に勧告し、それが容れられない場合は軍事行動も辞さないと強硬な姿勢をみせた。アメリカがキューバにおける核ミサイル基地を発見し、海上封鎖に至り、それの撤去が確認される13日間、世界は固唾を飲んでその行方を見守った。


 もっとも、当時の史料に基づいて詳細な研究が行われた結果、キューバ危機がより深刻な事態に発展していたとしても、米ソの全面衝突や核戦争が直ちに起こる可能性は高くなかったという見方も広がっている。米ソ両国にしても、主戦場ともいうべき場所はヨーロッパであり、両陣営にとってそれに見合うだけの結果が見込めない以上、関係の決定的な悪化は避けたかったからだ。


 こうした事態を招いた背景には、アメリカ、ソ連、そしてキューバそれぞれにおける見通しの甘さやこうした行動をとらざるを得なかった国内事情もある。当時、アメリカのCIAや軍はキューバの反米姿勢を楽観視し過ぎており、それに政府、とりわけケネディ大統領は不信感を募らせていた。

 ソ連はフルシチョフ書記長の政治基盤が必ずしも安定しておらず、アメリカに対する揺さぶりを行うことによって、党や軍における主導権を強化できるものと考えていた。アメリカ側が強硬姿勢をとる可能性について、深く検討がなされたかは疑問である。

 キューバは、アメリカの傀儡国家であったところから、革命によって資産の没収などを行ったため、反米という点で一致するソ連との関係を強めた。敵の敵はわが味方、というわけである。しかしそのことが、キューバを国際政治の舞台に立たせ、また当事者を差し置いて解決が図られたことになる。大国に依存し過ぎることが、たとえ自国の安定に寄与する意図をもっていたとしても、その存立を危うくするリスクがあることをこの出来事は示している。


 しかしながら、キューバ危機が米ソの妥協によって収束したのちも、カストロ議長の指導によって、キューバは国家として存続し続けることができた。ソ連崩壊後、経済援助を欠いたなかで厳しい運営に直面した。しかしそれをも乗り越え、アメリカとも和解を果たしたという事実は大きい。

 もちろん、革命そのものによって多くの犠牲や損失が出たことも事実である。大規模農場の経営者だった人びとは、その資産を没収され、ある者は命を落とし、またある者は亡命を余儀なくされた。
 経済的にも困難が続いた。アメリカによる経済制裁は、これまで依存してきた基盤の崩壊を意味した。そして政治的にも、しばしば指導者の暗殺、政権の転覆という危機に置かれていた。


 ただ、革命前のキューバのように、そのまま大規模農場の経営を通じて、アメリカ経済と深い結びつきを保っていればよかったかといえば、それも疑問が残る。

 なぜなら、それはアメリカが主に自国の南部で行ってきたものであったけれども、人種や経済格差などの問題から、それを放棄し、かわりに周辺国に押し付けたものだったからである。そして、一般的に経済は農業から軽工業、そして重工業へと発展していくものと捉えられているけれども、実質的にアメリカ経済に組み込まれてしまえば、プランテーションによる一部の農業経営者にのみ、富が集中するという仕組みが固定されてしまうのだ。

 その是正に取り組まず、カストロ政権の転覆にばかり固執してしまったアメリカは、やがてベトナム戦争において同じような過ちを犯し、国内外を大きく動揺させた。ソ連もフルシチョフが失脚したのち、政権基盤がさらに安定せず、経済の混乱や中国との関係悪化など、内憂外患を抱えていくこととなった。

 すでに述べたように、フィデル・カストロは、その後も国家の指導者であり続けた。最晩年は一線を退いたものの、その存在感はなお大きかった。彼の評価はその事績ごとによって、毀誉褒貶が激しい。しかし、偉大な指導者の一人であったことは間違いない。

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■カストロ氏死去で沈む市民、一方で喜ぶ亡命キューバ人も
(朝日新聞デジタル - 11月26日 22:58)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4313272
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