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2016年08月12日14:17

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「有楽町で逢いましょう」の歌がいかに日本の文化史に大きな足跡を残したかを象徴する五木2番組

 最近BS放送での歌謡曲番組が多い気がする。好きなので観たいと思うのだが、ともかく追う時間がない。何よりもその体力が衰えたのかもしれない。テレビ番組表で、フランク永井がらみの臭いが伝わってくるものをなるべく見逃さないようにしている。もちろんだが、とても見きれるものではない。
 懐かしの…というような内容の番組は特に長時間になる傾向が強い。過去の人気曲となると歌手の数も多いし、曲数もある。嗜好品であるこの種のものは視聴者の好みがそれぞれで、番組での紹介がブチ切りであったり誰もが知るありきたりのエピソードを語るだけでは、視聴者の視点で満足度が伸びない。さまざまな工夫をこらそうとすると、長くなるのはやむを得ないのかもしれないが、それにしても2時間程度を超えると見続けるのは苦痛を伴う。
 つい、ビデオに録りあとでヤ歌や歌手のシーンは飛ばすとかしてみるようになる。
 暑い今年の夏は、オリンピックがあり甲子園があり、世を賑わすテロ事件ありで何かと忙しい。そんななかで、目にしたのは「8月5日BS-TBS『昭和…愛しき歌よ!〜五木寛之・わが人生の歌がたり〜』」と「8月3日五木ひろし戦後70年を歌う 『リンゴの歌』〜『人生いろいろ』まで…昭和に刻まれた名曲のあゆみ」の2番組。
 いずれも現役ばりばりで歌謡界を歌い語る五木ひろしの番組。当然だが、後者で五木はフランク永井の「有楽町で逢いましょう」を昭和に刻まれた名曲のひとつに選んだ。五木は正式にこの曲はカバーとしてCDに入れて出している。
 注目したのは前者番組で、語る主役は五木寛之だ。五木ひろしの芸名は寛之がつけたということは有名だ。寛之がひろし以下由紀さおりとかに、何年かぶりであって語りながら寛之が今日までに生活体験のなかで、深い印象を残した流行歌として紹介する形の番組だ。
 「歌謡曲のない日本には住みたくない」と語るほど歌謡曲には造形を持つ五木寛之の語りがいい。後半戦後の話題になって、1957年(S32)に「有楽町で逢いましょう」が多くの人に衝撃的な印象をのこしたことを紹介している。番組では佐伯孝夫+吉田正×フランク永井のコンビがさらに「西銀座駅前」という歌の発表で衆目をとりこにしたことを紹介。
 さらに、編曲家寺岡真三による斬新なジャズ風リメークで復刻させた「君恋し」を熱く語る。五木ひろしは「西銀座駅前」と「君恋し」を歌った。
 五木寛之によるこの時代の紹介する内容はそのまま多くの人びとの記憶と重なるものだ。

 そのような歴史を背負う「有楽町で逢いましょう」の有楽町を11日に尋ねた。マリオン前にある歌碑はきれいに清掃されいた。写真(右上)はまさに、今の歌碑の姿だ。この歌碑もそうだが、その前にバス停のスタンドのような増築物がある。有楽町という名称の由来について書いてある銘なのだが、上部に時代劇作家で知る童門冬二による「ぼくの有楽町」という小文が刻まれている(写真左)。
 その中にしっかりと歌「有楽町で逢いましょう」が記されている。下記に紹介する。

『ぼくの有楽町 童門冬二
 ぼくにとって戦前の有楽町は“高級な街”だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している。「山手線の環外は東京でも田舎だ」といわれていた。その環外に住むぼくにとって、有楽町はまさに“遠くに在りて思うもの”だった。
 それが突然「きみたちもおいでよ」という庶民的な街に変質したのは、なんといっても大阪からの「そごうデパート」の進出である。昭和32年(1957)5月のことで、エスカレーターやエアカーテンが珍しかった。そして一躍その変貌ぶりをアピールしたのが、フランク永井の歌う“有楽町で逢いましょう”だ。本当はデパートのCMソングだそうだが、そんな気配はみじんもない。銀座と並んで日本の街にした。
 ちかくの都庁に勤めていたぼくは“すし屋横丁”の常連であり、いまでもその跡を懐かしく訪ねる。現実を超えて、有楽町はぼくの脳裡にしっかり根づいている。』

 そこはまさに有楽町だが、道を挟んで銀座だ。数寄屋橋でもある。いずれも多くの小説や歌のなかに刻まれている。裕次郎の「銀座の恋の物語」もこの場所を象徴するもので、有楽町で逢いましょう歌碑から歩いて1分程度の場所に残されている。(写真右下)

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