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2016年07月08日10:43

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フランク永井の恩師吉田正スペシャル放映BS朝日「昭和偉人伝」#61

 6月はフランク永井の恩師吉田正の命月であることから、特集番組が続いている。6日はBS朝日から「昭和偉人伝 スペシャル #61「吉田正」」が放送された。
 吉田正については当然のことながら、まさに昭和史に輝く偉人として何度も特集番組は作られている。だが、今回の2時間スペシャルは完成度が高く保存版でもあった。
 吉田作品は数千曲に及ぶ。永年にわたり専属契約をしていたビクターから正式にリリースされたものばかりではない。団体や企業、観光協会といったところから依頼されて作った曲は数えられない。また、校歌もある。さらには、シベリア抑留から帰国する以前に作った曲も数えられない。
 それでも名曲として大衆の耳に残っているのは、そのうちの僅かである。といっても分母が多いからで数百曲になる。だが、吉田は時代が変わったときに「よみびと知らず」のように、作者のことはしらねども永く口ずさまれることが、最大の喜びだといっていた。
 吉田が偉大と言えるのはもう一つある。それは番組でも表現されていたことだが、吉田が他の作曲家と独自の境地として求めた方向だ。戦後の大衆の貧しさ、戦後復興の目覚ましさ、そうした中で日夜労働に励んだ人たちが、就労を終えてひとときの憩いの場を持つ。今でいう居酒屋だ。そこに流れるBGMはみなジャズだったときに、ここで歌われる、聴ける、安らぎになる、明日への励みになる、そのような歌を作りたいと求めたことだ。
 流行歌はそのようなところに役割があり、人びとの生きる力になるのだと。貧しさ、至らなさ、つたなさ、悲恋と失恋、仲間への思いをときには励まし、薄め、水に流してくれる。気を持ち直して明日から新たな気持ちでやっていける。そのような力には直接はならなくとも、BGMとして間接的には役立つのだと強く思っていたことだ。
 番組では、もう時効かというように、吉田自身が晩年に戦争経験に触れた映像がながれた。もちろん具体的なことではない。曲の一片にかならず思いを込めているのだと。戦争の現場であるいは抑留の現場で理不尽のきわみを経験し、そこで多くの人が思考破壊される。感情のゆがみがでる。だが、吉田はそれを明日への生命の糧に転嫁した。
 吉田は番組で「寒い朝」と「いつでも夢を」をもっとも気持ちを入れ込んでいると評した。吉田メロディーが多くの人びとの心に残っている理由は、そうした曲の裏と底に流れるものがあるからではないかと思う。
 ゲストで話をした平尾正晃、湯川れい子の話が光る。今は歌謡界の重鎮でもある二方は、吉田正について今まで語られることがなかった、作曲家としての視点と感覚を話していた。また、現在吉田正とその門下生のいっさいを管理している吉田事務所の谷田郷士が、身近で吉田といっしょに取り組んでいたゆえのエピソードを語っている。

 フランク永井ファンにとっても、恩師吉田正とフランク永井の関係をきっちりと取り上げられていることに満足感を得たと思う。
 吉田メロディーは今では都会派歌謡ともいわれる。試行錯誤を経て完成を見たのは最初から見出し育てたフランク永井との出会いだ。まさに「有楽町で逢いましょう」の成功で吉田は信念に確固たる自信を得たと後に話している。
 フランク永井自身も、そうした吉田の意の真意を感じて、自分の歌の方向を見出したといえる。吉田学校とは言いえて妙だが、師匠が生徒に歌だけではない人として大事なことをまず話し、共有したことは有名だ。このようなシステムを結果といえども実行されたことが、今では驚異的なことだ。
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