mixiユーザー(id:3341406)

2015年11月16日22:59

624 view

大学時代の文学仲間との例会〜川越/その2

(続き)

11/14(土)、2日目である。
朝、ホテルの8階の部屋の窓から眺めると、人家の屋根や道はうっすらと湿っている程度で、歩く人の中にも傘を持たない人がいる。

ホテルのレストランでバイキング方式による朝食を食べつつ、当日の予定を話す。
行程は凡そ以下の通りだが、雨の様子等見ながら柔軟に対応するつもり。
・川越八幡宮〜喜多院〜氷川神社

9:15、チェックアウトを済ませた上で、荷物を預かってもらい、徒歩にて出掛ける。僅かばかりの雨だが、やはり傘を差す。

10分程で、「川越八幡宮」に着く。
そもそもは平安時代の1030年、甲斐守源頼信が平忠常追討の戦に勝った事のお礼として創祀されたと伝えられるが、今の建物はそれ程古く見えない。(帰って調べると、1975年に改修したとある。)
その後、この地の領主河越氏が土地を寄進して神社は大きくなり、太田道真,道灌親子によって川越城ができた室町時代1457年からは、城の守護神として歴代の城主が篤く崇敬したとの事。

境内には縁結びの大イチョウがある。
現天皇が生まれた1933(昭和8)年に雌雄2株を植樹したところ、その2本は大きく育ち、遂に合体して大木となった。
まだ黄葉には早かったが、もうしばらくしたら見事な色に染まる事だろう。

この日に訪れた神社や寺は、何処も七五三参りの人出で賑わっていた。


ここから県道を北にしばらく歩いて東に折れると、「喜多院」南の裏手に出る。
小さな川に架かる石の橋は「どろぼうばし」と名が彫り込まれている。
変わったその名の由来は、以下の通り。
・・・その昔、町内で泥棒を働いた男が、町奉行にに追われ、橋を渡って喜多院境内に逃げ込んだ。ここは川越藩も手が出せない土地である。しかし、泥棒は寺の者等に捕まり、その後罪を悔いて祈り、改心した。
寺が幕府寺社奉行に処置を伺ったところ、無罪放免の許しが出たそうで、彼は町の商家でまじめに働いて一生を過ごした・・・と。
史実かどうか判らないけれども、やけに生々しい名前であるからして、ある程度事実が含まれているのではないかと思いもする。

巨木の生える薄暗い林を抜けると、紫,緑,黄,朱,白、太い縦縞の幕が目立つ「慈恵堂」の横手に出る。
喜多院は平安時代830年に慈覚大師円仁(794-864)によって創建された天台宗の寺で、その本堂が慈恵堂である。
当初は無量寿寺と言って、北,中,南の3院があったが、桃山時代1599(慶長4)年に徳川家康と縁が深かった天海僧正(慈眼大師/1536-1643)が第27代住職として入寺した時、この「北院」を「喜多院」に改めた。
中院のあった場所には「仙波東照宮」が建てられた為、本来の中院は200m南に移動し(現存の位置)、南院は明治初期に廃寺となった。

この喜多院は、川越が「小江戸」と呼ばれるに到った原点ともなる史実を有している。それを確認すべく、拝観料400円也。

この寺は、江戸初期1638(寛永15)年の川越大火の時、山門を残して全て焼失してしまった。
三代将軍家光(1604-51)は、家康から家光に亘って仕え大恩のある天海僧正に、江戸城内「紅葉山」の自分の別殿住居を与える事とする。江戸から川越に建物は移築され、喜多院の客殿,書院,庫裏となった。
平成の今からすれば400年前の建物で、全て国指定の重要文化財となっている。
その中には、家光誕生の間や、同厠と湯殿、家光の乳母春日局の化粧の間等が含まれる。
誕生の間の格天上(ごうてんじょう)には9×9=81枚の四季の植物図があり、今も鮮やかな色が残っている。障壁画含め、それらは狩野探幽画だと伝えられている。
現在の皇居には、江戸時代の建造物は焼けて一切ない。したがって、江戸城の旧い建物は、川越の喜多院でのみ接する事ができるのである。「江戸を見たければ川越へ行け」という言葉の意味はここにある。

新河岸川の舟運については、レポート「その1」で触れたが、江戸と川越を結ぶ船の運航も、この江戸城紅葉山御殿移築がきっかけで開発され、後、大いに活性化する事になるのである。
当初、新河岸川は小さな川だった為、敢えて激しく蛇行させる水路の改修を行った。これにより、川の流れは悪くなり、水量は増し、帆船が通航できるようになったのである。
しかし、1910(明治43)年の水害を教訓にして、新河岸川は再び蛇行を減らす改修を行う事となる。結果、今の新河岸川の多くの場所は、浅く水量も少ない都市河川となったのである。

徳川ゆかりの建物と遠州風の庭を見学した後、五百羅漢群像を見に移動する。
喜多院拝観料はこの五百羅漢見学も含んでいる。
ここの羅漢群は1782(天明2)年から1825(文政8)年、四半世紀程をかけて作られた。個別の作者は知られていない。全部で538体。全てが異なった表情とポーズをしていて、1つ1つそれらユニークな姿に触れていくのは飽きない。
フォト

彼等が何をし何を話しかけているのか、それは観る者の想像力次第である。


喜多院の境内にある「仙波東照宮」については、雨も降るし、省略しようと思いかけていたが、前を歩いていく見ず知らずの人達が行くと会話しているので、何とはなしについていく。
折しも特別公開をしていたので、ついて行って大変に幸運だった。

・特別公開期間 11/1〜11/23

特別公開は、今回は家康公没後400年の記念、前回は3年前の2012年、川越市市制90年記念事業の一環だったようだ。
特に、今回は本殿の唐門も開けるとの事で、これはなかなかない事らしい。
拝観料300円也。
市のボランティアの方々が赤いジャケットを着て、熱心に説明をしてくれた。

先に「喜多院の境内にある」と書いたが、正確に言うと、1868(明治元)年の神仏分離令で、仙波東照宮は、場所は同じながら喜多院から離され、形式的に川越八幡宮の管理下の入った。

徳川家康は1616(元和2)年、75歳で亡くなった。
家康の遺体は一旦久能山に葬られたが、翌年「東照大権現」の神号を送られ、遺言に従って日光に回葬される事となる。その途次、棺は川越に立ち寄り、天海僧正達によって4日間の大法要が行われた。
その後、天海は、中院の場所に堀と丘陵を築き、社殿を建造した。御水尾天皇からは「東照大権現」との直筆の額が送られる。
しかし、先にも書いた川越大火(1638)の折り、寺もこの社殿も焼け落ちてしまう。
家光はすぐさま再建を命じ、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行、天海を導師にして、1640(寛永17)年に再建を果たす。これが現在の仙波東照宮である。

東照宮というのは全国に500を超える数作られ(現存は130)、日光,久能山を含めそれぞれが自社を「三大東照宮」と”自称”する例が多いが、史的経緯を見ると、やはり、ここをその1つと呼ぶべきだと認識する。

仙波東照宮の構図は、階段の下に「随身門(ずいじんもん)」、石鳥居、丘陵の上には「拝殿」と「幣殿(へいでん)」が繋がり、その奥に別棟の「本殿」がある。全て国指定の重要文化財。
今回は拝殿に上り、開けられた戸の向こうに弊殿を覗きながら説明員の話を聴いた。
拝殿の壁には、岩佐又兵衛の《三十六歌仙額絵》が並べられている。但しレプリカ。(重要文化財の本物は「埼玉県立歴史と民俗の博物館」に寄託されている。)
写真は、内〈在原業平〉。この顔の作りは又兵衛に間違いない。
フォト

木彫の隋臣像2体は、本来隋身門の中に収められているもの。
「東照宮」の額の文字は「鳩文字」と言って、鎌倉の鶴岡八幡宮の額文字も同様の形態。この丸っこい文字の形から豊島屋の銘菓「鳩サブレー」が生まれた由。
暗い弊殿の中に覗き見えるのは、御水尾天皇直筆の「東照大権現」の額と、狩野探幽画と伝えられる12枚の《鷹絵額》。

一旦外に出て、拝殿,弊殿の周囲を回り、唐門をくぐって本殿の前に出る。
唐門から中へ今回幸運にも入れたが、本殿の中には入れない。説明員の人達も入った事はないそうだ。
本殿の外壁や柱、朱をベースとした極彩色と彫の深い木彫群は日光東照宮と同じ安土桃山様式の豪壮なもの。
フォト


東照宮を出て喜多院の外周を歩き、時間的には正午前でお腹も空いた頃合い、北側参道にある「寿庵」そば店に入る。
雨で身体が冷えた事もあり、温かい天麩羅そばを頼む。1,250円也。そして、ビール。


身体が温まったところで、更に北進。雨はやや強くなる。
氷川神社が最後の目的地である。
川越城本丸御殿の西の道を上るが、ここから御殿は見えない。
もし、帰りにまだ体力と気力が残っていれば、この御殿と三芳野神社に寄ろうと思っていたのだが、結局それは果たせなかった。私1人ならば雨中でも寄っただろうが…。

氷川神社の創建は飛鳥時代541年、欽明天皇の勧請によるとされる。後の歴代の藩主は川越の総鎮守府として崇めてきた。
朱塗りの木製の大鳥居は高さ15mもある。社号の額文字は勝海舟によるものらしい。
絵馬掛けがトンネル状になっている絵馬参道をくぐって歩くと、本殿を裏側から覗ける。この社殿は1849(寛永2)年に建造され、精巧な江戸彫りが見事である。彫師は、嶋村源蔵と飯田厳次郎という名が残されているが、詳しくは判らない。
氷川神社の裏通りに抜けると、そこにも新河岸川が流れがある。
川は、菓子屋横丁の西から北に上り、半円を描いてこの氷川神社の北側に下りて来る恰好になっているらしい。
境内には、他に、柿本人麿神社等も設けられている。
氷川神社も、雨中にも関わらず、七五三のお参りで賑わっていた。


寒くなってきたのでお茶でも飲みたいと、喫茶店を探すがなかなかない。
さいたま地方裁判所前を通り、結局また一番街に北の端から入る。
「陶舗やまわ」の角を入り、「カフェ・ギャラリー釜銀」へ。
ホットケーキセット700円也。甘い物を身体に入れてちょっと生き返る。
しばらくくつろいだ後、ホテルに戻って荷物を受け取り。
個別の清算を済ませ、来年の幹事を決めた。
それぞれの家の都合で、西武新宿線、東武東上線と脚は別れる。
よく歩いて、愉しい2日間だった。
また来年皆元気で会えるように、と声を掛けて手を振った。
 
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2015年11月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930