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2015年10月06日00:01

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賀茂真淵記念館講座「森鷗外の人と作品」第4回〜『舞姫』その1

6/19,7/17,9/18に続き、10/2(金)、標題講座の第4回が行われた。

講師 杉本完治

全5回の内、第4と5回は『舞姫』(1890)を連続してテーマとする。
『舞姫』は、ヨーロッパ留学から戻った鷗外の実質的に最初の小説。「ドイツ3部作」のうち。

冒頭の部分を引用しておく。
・・・・・・
石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱灯の光の晴れがましきも徒なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。五年前の事なりしが、平生の望足りて、洋行の官命を蒙り、このセイゴンの港まで来し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく、(以降略)
・・・・・・

杉本曰く、この小説は高校の授業で何度も取り上げてきた。そして、やる度に難しいと思う。どんな質問が来るかと、いつも怖い思いがする。自分の中でも、疑問が次から次へ湧き上がってくる。

この小説は、上野の不忍池近く、今は水月ホテルになっている鷗外荘で書かれたという事になっている。
現在ある鷗外荘の場所ではなく、門と新館の間の通路脇の場所、その2階で書かれたもようだ。
私も2011年の年末に、大学時代の文学仲間とここに泊まった事がある。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1807256781&owner_id=3341406

磐田の赤松男爵(陸軍中将)の持ち家で、鷗外はその娘登志子と結婚し滞在していた。
ここで、『舞姫』は1889(明治22)年12/末に書き上げられた。そして、発表は翌年1/22、〈国民之友〉誌上に。
2万3千部が売れたそうで、当時としては大変な数である。誌の固定的読者も多かったようだが。
1889年というのは、大日本帝国憲法が発布された年。翌年7月には初めての総選挙が行われ、第1回帝国議会も開かれた。
大日本帝国憲法が発布された日には、初代文部大臣 森有礼が国粋主義者に切りつけられ、翌日亡くなった。
そんな背景の時期だった。歴史の流れとの繋がりの理解は(『舞姫』に限らず)大変に重要である。

杉本は、鷗外の『舞姫』初期自筆原稿のコピーを見た事がある由。偶然古本屋で見つけて購入した。
鷗外自身による訂正個所がたくさんあった。達筆な上に、読みにくい事この上ない。
読み進めると、その文面は〈国民之友〉誌に載せられたものと少し違うところがある。
その後も鷗外は何度も校正を重ねている。
最後の本人校正版は『塵泥(ちりひじ)』(大正4年12/23発行)に掲載された。
今回の講義資料は、『塵泥』版を元に、杉本が、明らかな誤りの部分のみ手直ししたものである。

鷗外という人は、漢文でもサラサラと書けた。
何と、東大医学部の聴講ノートも漢文で書いている。
これを教授は勘違いした、鷗外はノートを取っていない、と。
鷗外が卒業時の成績を8番にされたのは、このせいだと言われている。
この事は、明確には書いていないが、鷗外の心中には後々迄残ったようだ。

さて、『舞姫』冒頭の「石炭」を何と読むべきか、ここからして既に悩み深い。

鷗外は10歳の時、廃藩置県をきっかけにして、単身津和野から上京した。医学習得の為にはまずドイツ語を学ぶ必要があると、予備門「進文学社」に入学。
通学に便利であるとの事で、同郷の政治家 西周の邸宅に寄宿した。
後楽園は水戸藩邸跡にあったが、そこに陸軍の砲兵工廠が建てられていた。
西周邸から進文学社に通ったルートもほぼ判っているが、その道から砲兵工廠の煙突からモクモクと煙が出ているのが見えた筈だ。
当時石炭は既に産業用として使用されていた。
江戸時代の終わりには、九州や山口産の石炭が家庭用の燃料として使われ始めていた、という史実がある。
それは家庭では「いしずみ」と呼ばれていたようで、明治時代初期の辞典に「いしずみ」という項目がちゃんとある。
では、『舞姫』冒頭は「いしずみ」と読むべきかと言うと、実は「せきたん」という項目も辞典にはあるのだ。
明治5年には早くも鉄道が曳かれた。その燃料は無論石炭(せきたん)である。

冒頭の2文字の読み方を判断するには更に様々な調査と理解が必要だが、最終は「せきたん」で良かろう、というのが杉本の結論である。
このように、『舞姫』は、最初の2文字からして判らない事だらけなのである。

続けて「卓」はどう読むか、そしてそれはどんな物を指すのか。別のところ(エリスの屋根裏部屋の描写の部分)で「机」という文字が出てきて、鷗外は「卓」と「机」をしっかり使い分けている事が判る。では「卓」と「机」の違いは?
「熾熱灯」とはどんな物か、鉛筆の芯によるアーク灯かエジソンの電球か。どれ程の明るさだったか。
「徒なり」は「あだ」か「いたずら」か。
鷗外の初期自筆では、ここは実は「やくなし」となっていた。『塵泥』迄の過程の中で「徒なり」に自身改訂したようだ。これは、「やくなし」より校正後の「徒なり」の方が素晴らしい。ここで表されている留学に対する豊太郎の虚しい思いからすれば、「いたずらなり」と読むべきだ、というのが杉本の結論である。
「骨牌」はカルタかトランプか。トランプはいつ日本に入ってきたか。骨牌仲間が何故今宵は来ないのか。
「ホテル」に「 」が付いているのは何故か。明治の日本のホテル事情は、ベトナム・サイゴンのホテル事情は。
何故「余一人」舟に残り、同船の人達と同行しなかったか。豊太郎は、いや鷗外は、この後、ドイツから1人の女性が船で日本に来るのを知って、頭を抱えていた。
さて、当時ヨーロッパ〜日本間の船旅に幾らくらいかかったろうか。現代の円に換算すると、船賃のみで約140万円、食費を入れると200万円くらいしたろう。後から来る女性、『舞姫』ではエリス、極貧の女が何故そんな金を持っていたのか。
そもそも、鷗外の渡欧はどんな経緯で実現したのか。大金を要する洋行は簡単にできるものではない。そもそも鷗外がしたのは「留学」か?
その実現に、鷗外は大変な思いをした。

結論を導き出すのは、実史に当り、この目で確認できるものには実際に行って触れ、過去の諸説を咀嚼し、様々な実証によってのみ可能である。
場合によっては、調査によって出てきた別の疑問を、また一から掘り起こし直す必要も出てくる。疑問の後には疑問がづるづると付いてくる。
果てしない謎解き、その深さ面白さを、杉本の講義は教えてくれる。


・・・そんな訳で、『舞姫』講義その1の2時間は、4行程進んでたちまち終わってしまった。

次回その2が全5回の最後だが、一体この講座を杉本はどう締め括るのだろうか(笑)。
愉しみではある。
 
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