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2015年10月05日15:42

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浜松フィル公演〜.歌劇『ジャンニ・スキッキ』(プッチーニ)

10/1(木)、文芸大の後期第1回聴講の後、しばしお茶、夕刻に到り、浜松フィルハーモニー管弦楽団の「秋の音楽会」を聴きにいく。
今回は、アクトシティ浜松中ホールにて、プッチーニの歌劇『ジャンニ・スキッキ』をホール・オペラ形式で行うとの事。

冒頭、指揮者の柴田真都と演出家 三浦安浩によるトークがあった。前半は2人で、後半は三浦1人でこの公演について語った。
それを踏まえて、以下・・・

浜松市はイタリアのボローニャと姉妹都市提携をした。
今回の浜フィル公演は、その記念事業とする事から、ボローニャから歌手を招聘してオペラをやってみてはどうか、という事になった。
プッチーニの『ジャンニ・スキッキ』は規模が小さく、合唱も必要ないので、主役男女2人を呼ぶ程度で済み、浜フィルとしては(経済的な意味で)やり易い。
形式をホール・オペラとすれば、舞台装置もナシでいける、そう考えた。

オペラは歌手,オーケストラ、そして音楽と演劇をフルに活かす総合芸術としての伝統的な姿があるが、他に、やや簡便なスタイルとして、「ホール・オペラ」と「オペラ・コンチェルタンテ」という形式がある。
言わずもがなだが、本来のオペラではオーケストラは舞台前のピットに降り、舞台上は全面、出演者の歌唱と演技、美術・装置に使われる。
「ホール・オペラ」と「オペラ・コンチェルタンテ」では、オーケストラは普通の演奏会のように舞台上に陣取る。
後者では、歌手達は、コンチェルト(協奏曲)形式のようにオーケストラの前に立って歌う。狭い場所である為、身体的演技には限界がある。「コンサート形式オペラ」という言い方をする時もある。この場合、指揮者は勿論いるが、演出家を立てる事はない。
対して前者「ホール・オペラ」の方は、ある程度の場所を舞台上に確保する為、演技は可能である。この場合、演出家も立てる。
演技場所を何処に設置し、美術・装置や照明をどうするか、演技の問題以外にそれらも含めて演出家は考えなくてはならない。

今回は、先に書いたようにアクトシティ浜松中ホールであるから、舞台上にオーケストラが並んだら、残る場所は相当狭い。
舞台前面にオケを座らせ、その奥に、1段高さを取ったステージを設置、そこで歌手達に歌い演技させる事とした。
パイプオルガンの設備があるので、そこへ上り下りする階段も利用した。舞台装置は、椅子と脚立他といった程度。
冒頭に置いた、翌10/2の中日新聞朝刊記事の写真をご覧頂けば様子が判るだろう。

この舞台設定では、演出者が言う通り、照明はかなり苦労していた。
舞台装置がない分照明で物語の進展に合わせてた変化を持たせたい、舞台奥に観客の視線を誘導する必要もある、が、前にいるオケにライトが被ってはいけない。

私は前から4列目のほぼ中央の席。普段ならS席の場所だが、B席で安かった。何故かよく理解せずに買ったのだが、本番を迎えてやっと判った次第である。
つまり、演奏するオーケストラ(勿論その前中央には指揮者もいる)の奥に、半分くらい隠れて、歌手達の動きが見えるという感じだ。
最前列の真ん中に座っているご婦人等、指揮者の背中を見ているようなもので、歌手達は殆ど見えなかったに違いない。

さて、データを以下整理しておく。

演出 三浦安浩
照明プラン 鈴木武憲

指揮 柴田真都
演奏 浜松フィルハーモニー管弦楽団

出演
ジャンニ・スキッキ マルツィオ・ジョッシ(br)
ラウレッタ(その娘) パオラ・チーニャ(s)
リヌッチョ(ラウレッタの婚約者) 古橋郷平(t)
ツィータ 巖淵真理(a)
ゲラルド 日浦眞矩(t)
ベット 三戸大久(b)
ネッラ 小山亜矢(s)
シモーネ 松山郁雄(b)


創作の経緯やストーリー,歌劇の構造等については、下を参照頂きたい。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=969471442&owner_id=3341406

原作では、金持ちのブオーゾ・ドナーティが寝室のベッドで死んだところからスタートする。集まっている親戚の男女は、実は彼の遺産が目当てだが、取り敢えず大袈裟に泣き悲しんでみせる。
が、今回演出の三浦安浩は、それに前置きを付けた。
音楽がまだ鳴らない舞台上、子供の遊びの騒ぎの中、ブオーゾはそのおもちゃの鉄砲に撃たれたかのように、真ん中の椅子に座ったまま死ぬのである。
ブオーゾがまさに死ぬ場面を置く事によって、物語のスタートに強い印象が生まれる、または、この劇の喜劇的な性格がより露わにできる、そう考えたのだろう。
その狙いは良かったと思う。
椅子にしたのは、先に述べた舞台構造上、ベッドでは観客に見えないからである。

私は、ラウレッタのアリア「O mio babbino caro(私の優しいお父さん)」さえ気持好く聴ければいいくらいの気持でこの公演のチケットを買った。
この甘い甘いアリアが、ドタバタ喜劇の中で浮き立たず落ち着いて聴こえる為には、その前の部分との繋がりが大事だが、うまくすんなりと入ってくれて、良かった。
ブオーゾの甥のリヌッチョが、遺産相続のトラブルの解決の為に呼んだのがジャンニ・スキッキだが、他の親族が彼を田舎者と馬鹿にするので、スキッキはヘソを曲げ協力を断わる。このままでは、リヌッチョとラウレッタの結婚も実現が危ぶまれる。
そこで、ラウレッタは歌うのである、あの甘い甘いアリアで、父スキッキをとろかすかのように。
パオラ・チーニャは、まるで甘える猫のように歌った。そして、「叶わないなら、ヴェッキオ橋からアルノ川に身を投げてしまうわ」と脅かしもした。

1幕舞台の連続する中でブラヴォーが出たのは、ここだけだった。
ラウレッタの役は、実はこの後殆どなく、スキッキの独壇場である。
ラウレッタは、この甘いアリアを歌わせる為だけにプッチーニが作り出した役のように見えなくもない。
スキッキは、ラウレッタに悪事の加担をさせたくない為、ベランダに出て小鳥に餌でもやっていなさい、と、舞台の外へ押し出してしまう。
オペラの源泉である『神曲』の作者ダンテからすると、ベアトリーチェは、決して悪に染まらぬ天使のようでなければいけなかっただろう。
そういう意味では、ベアトリーチェとラウレッタは重なる部分がある。

スキッキ役のマルツィオ・ジョッシはクセが強くなく、程良かった。
あまりアクが強いと、このオペラの、トリッティコ(3部作)の中で位置付ける「天国篇」という色彩が崩れてしまうかもしれない。


最後にもう一度舞台に話を戻すと、今回の設定はなかなか難しかった。
2階の前の方の席ならば全体は眺望できたろうが、1階では、S席でもきっと観にくかったろう。
演技するには狭いとしても、オーケストラの前に歌手達は出した方がやはり良かったように思ったのだった。

帰りは、車を運転しつつ、「O mio babbino caro」を鼻歌で繰り返しながら心地好く家に向かったのである。
 
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