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2014年06月27日03:09

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詩『詩を書く』


 私のような、ろくに文章も読めない、ろくな文章も書けない者が、詩などいう物を書いている。何故書くのか、といえば、おそらく脳ミソのどこかにある、詩の世界に通じる扉を、私の誰かが開くと、黒い闇の手が伸び、私の全てを掴み、行きたい所までタダで連れて行ってくれるからある。
 詩を書いている自分の手元が見えていない訳ではない。その時私は、私と二手に別れ、(誰か、すなわち)裏側の私が時空を越える旅に出るのである。
 もともと二人は同じなのであるから、携帯電話で逐一報告せずとも、表の私は、裏の私が旅する様子をあたかも自分が旅しているかのように詩に書いていくのである。もちろん、この文章は、裏側の私である私が思考しているものとなる。

 闇が少しだけ開けた。私は生まれる前の胎児になっているようである。過去へ、とは願ったものの、まさか生ぬるい風呂に潜ったようなこもった音の中へとは思ってもみず、少々慌て気味である。
 線路に車輪が弾かれる列車の中で、外界の複数の人々の声がぐちゃぐちゃになって聞こえる、そんな音の世界。おそらく母(私の母なのだろうか)はテレビを観ている。鋭い音が伸びたあと、軽快な低い管楽器の音が聞こえる。なるほど。テレビに弥七が登場したようだ。『水戸黄門』。まさかの時代劇での歓迎に苦笑いである。
 私たち胎児は皆、こんな退屈な時間を過ごして来たのかと思うと、気が遠くなる。しかし、女というものは、男からすれば、極めて我慢強い生き物である。10ヶ月の間、次第に重くなる胎児を腹に抱え、買い物に出掛けたり炊事洗濯までやってのけ、挙げ句の果てに陣痛、出産。と思えば、果てではなく、育児が始まるのである。
 私がどこまで胎児でいるかは決めていないが、陣痛までいると大変な痛みに襲われそうなので、2、3日で引き揚げるとしよう。
 そういえば、姉が居る筈である。鳴き声が聞こえない。別に姉の泣き声を聞いたところで、懐かしいなどと思う訳ではないのでどちらでもいいのだが。
 腹が動いた。否、母が立ち上がったようである。歩く衝撃が大太鼓の様に響いて来る。テレビの音が聞こえなくなった代わりに、母の声が響く。父、父が帰って来たのだ。昼出の仕事を終えた父の声は疲れた様子もなく、甲高い。私の心が高鳴っている。一年ぶりの、生きている父の声。しかも溌剌として例によって明るい。羊水の中でなければ涙が溢れているだろう。父に合いたいと思うが、今生まれても、どうせ目は見えない。また出直して来るか。これからの時間は夫婦水入らずということで。

 表の私が泣いているのが分かる。私が慰めてやるか、というより、また一つになって喜びと悲しみを分け合うか。父ちゃん、母ちゃん、この子は大人しくて、優しい子に育ちますよ。お二人なら、きっと立派に育て上げるでしょう。よろしくお願いしますよ。それでは、さようなら。お幸せに。




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