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2014年02月23日23:45

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下村観山展/駿府博物館

2/22(土)、静岡に出掛けて駿府美術館の下村観山展と静岡市美術館のシャガール展を観てきた。

下村観山(1873-1930)は昨年が生誕140年の記念年だった。
横浜美術館では2013年12/7〜2014年2/11の間、大規模な下村観山展が開催されていた。
駿府博物館の方は「第3の男 下村観山」と題されたもので、横浜美術館展の巡回ではない。
横浜は展示作品点数140点弱(前後期計)だったが、駿府は45点程、規模は大分小さい。会期2014年1/18〜3/2。

「第3の男」の男とは、「優れた作品を遺しながらも、横山大観,菱田春草の陰に隠れ、三番目に語られる事の多い」(駿府展チラシより引用)画家という意味合いである。観山が生きていたら苦虫を噛み潰すであろうタイトルだ(笑)。

「西の栖鳳、東の大観」という言い方もよくされる。
竹内栖鳳は京都画壇、大観は東京画壇の雄である。
栖鳳もやはり同時代の日本画家で、共に日本画の近代化に尽力した。

4人を生年順に並べてみると、

竹内栖鳳(1864/元治1-1942/昭和17)
―――――――――
横山大観(1868/明治1-1958/昭和33)
下村観山(1873/明治6-1930/昭和5)
菱田春草(1874/明治7-1911/明治44)

東京画壇の3人は、何れも岡倉天心の下で東京美術学校第1期生として学び、天心のスキャンダルに連なり、1898年同校を辞し、同年の日本美術院創設のメンバーとなった。

彼等の関係の中で作品を観てみると、なかなか面白い。

「朦朧体」は、天心の指導に従い、東京画壇の3人は共に関わる。
最も最初に「朦朧体」とメディアから揶揄されたのは、大観と観山の対の軸装水墨淡彩画《日・月蓬莱山図》(1900)である。
左幅が、大観、朝の蓬莱山、右幅が観山の夕刻である(写真1)。
横浜美術館展ではこれが対で展示されていたようだが、駿府では観山のものしかなくて、残念な事だった。両方共静岡県立美術館の所蔵品なのだけれども…。
大観の方が朦朧の度は徹底していて、観山は輪郭線が全くない訳ではない。
観山は理論より出来を重視したのだろう。折衷的な態度とも言える。

留学ないし洋行の関係では、当展の《ロンドン夜景》(1903/写真2)を栖鳳の《ベニスの月》(1907/http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1885468503&owner_id=3341406)と見比べると面白い。後者は当展にはないのだが、昨秋東京国立近代美術館で私は観ている。
観山は、明治維新政府初めての官費留学生として渡欧した画家だ。1903〜05年。
対して竹内栖鳳の方は、自作のパリ万博出品にかけてヨーロッパ視察旅行をしている。1900年と栖鳳の方が早い。これも公費だが、留学ではない。
観山は留学先のロンドンで、栖鳳は日本に帰ってから描いている。前者は三渓園所蔵、後者はビロード友禅の為の下絵で、友禅作品は大英博物館所蔵、下絵は高島屋資料館である。
どちらも水墨技術を駆使したもので、墨の濃淡による遠近法,陰影法に妙味がある。大変よく似ている。

琳派的手法としては、今展の《杉に栗鼠》(1912/写真3)と菱田春草の《落葉》(1909/http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1885081428&owner_id=3341406)を比べたい。これも後者は来ていない。
観山が軸装であるのに対し、春草は六曲一双。
規模も画面構造も、出来は春草がずっと上。
これを描いて2年後に春草は病没する。琳派のデザイン的特性はさる事ながら、画面に現れる透明な寂寥感はどうだろうか。こちらは第3回文展で最高賞を受賞している。
観山の琳派風作品には《小倉山》という優れた屏風画(六曲一双)があるが、これも今展には来ていない。

最後に、これは比較論ではないが、当展には下村観山の石膏デスマスクと、石井鶴三が描いた《下村観山遺影》が展示されている。
死因は食道がんだったそうだ。


シャガール展については明日にでも。
 
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