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2013年03月03日23:23

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歌劇『ジュリアス・シーザー』(ヘンデル)

ここ数年チェチーリア・バルトリ(メゾソプラノ)を聴きたいと思い続けてきたが、一向に機会が訪れなかった。
それが、2/18のNHK=BS<プレミアムシアター>で放映されるヘンデルの歌劇『ジュリアス・シーザー』の番組表を見て、そこに彼女の名前を発見し、歓んで録画をした。
イタリア語による3幕オペラであるから、本来は『ジューリオ・チェーザレ』である。「エジプトの」とその前に付けられる事も多い。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)がロンドン移住後の1723〜24年に作曲したバロック・オペラである。HWV17。台本は、ニコラ・フランチェスコ・ハイム。

バルトリはこのオペラの中でクレオパトラを演じているのだが、ただ歌手として出演しているだけではない。
公演は「ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭2012」中のプログラムだが、彼女はこの音楽祭の芸術監督を、2012年からリッカルド・ムーティの後を引き継いでやっているのだ。素晴らしい活躍である。
ちなみに、音楽祭を創設したのはヘルベルト・フォン・カラヤン、1972年の事。

まずはデータを書いておく。

演出 モーシュ・レゼール,パトリス・コーリエ
指揮 ジョヴァンニ・アントニーニ
演奏 イル・ジャルディーノ・アルモニコ

出演
ジュリアス・シーザー アンドレアス・ショル(ct/カウンターテナー)
クレオパトラ チェチーリア・バルトリ(ms)
トロメーオ(クレオパトラの弟プトレマイオス13世/エジプト共同統治王) クリストフ・デュモー(ct)
コルネリア(ポンペイウスの妻) アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(ms)
セスト(コルネリアの息子) フィリップ・ジャルスキー(ct)
アキッラ(エジプト軍の将軍) ルーベン・ドローレ(br)
クリーオ(ローマの執政官) ペーター・カールマーン(bs)
ニレーナ(クレオパトラの従者) ヨッヘン・コヴァルスキー(ct)

2012年5/25,27、ザルツブルクモーツァルト劇場公演のライブ収録


バロック・オペラは、実は私はあまり鑑賞した事がない。
シーザーを含めカウンター・テナーが4人も出てくるのには驚かされた。
カウンターテナーというのは、男声の超高音域の歌手である。
古典派以降のオペラであるなら、シーザーはテノールかバリトン辺りで作曲家は作るだろう。
バロック時代は、カウンターテナーの部分をカストラート(男性去勢歌手)が歌った。今はカストラートはいないが、当時は、オペラといえばカストラートが主役を張り、その超絶的な技巧を表すのが主流だった。
カストラートが4人(少年セスト役は女声ソプラノがズボン役で歌ったかもしれない)も出てきて、次々にその高音の冴えを披歴するのは異常でも何でもなかったのである。

そして、バロックのアリアといえば、唱法はコロラトゥーラである。
カウンターテナーの名手達が、透明な超高音で、上へ下へ転がるような喉を利かせる。ただ高音域が出るだけでなく、やはり男性であるから、力もあり、音程もクリアーで、ダイナミックな表現もできる。
上に挙げた主役陣8人で、低音域の歌手は僅か2人だけ。男女織り交ぜた高音が、何れもコロラトゥーラで転がすように歌うのは、現代人の目からしたら奇妙な光景ではある。が、その内、その素晴らしさに息を飲むようになる。


バロック・オペラの基本についてはこのくらいにするが、このオペラは、まず何よりも「演出の勝利」と言うべきだ。
後は、その演出の面白さについて少しばかり話す事にする。

まず、時代と背景は現代のアラブに置いている。
エジプトのトロメーオとクレオパトラ、ローマのポンペイウスの遺族とシーザーの、複雑で虚々実々の渡り合いは、テロリスト達の内紛や現地人とのわだかまり、NATO軍と現地の摩擦や相克をも連想させる。
そして、そこに愛欲と権力欲が絡む。
バロック時代といっても、神聖な宗教曲だけがあった訳ではない。人心は、今も当時も何ら変わりがない。
トロメーオはシーザーと敵対し、シーザーに擦り寄ろうとする姉クレオパトラを凌辱さえして、王権を独占しようとする。ポルノグラフを見て、マスターベーションをするかと思えば、ローマ内紛でエジプト迄逃げてきたポンペイウスの首を掻き、その妻コルネリアをも犯そうとする。

対照的に、第2幕冒頭、逢い引きにやってきたシーザーの前で、侍女リディア(実はクレオパトラ)が愛の歌を歌う場面は、夢とファンタジーに溢れ、彼女は、アリアをミサイルに跨って歌い、ミサイルと一緒に中空へ消えていく。
この場面での客席からの拍手は凄かった。どの観客もきっと呆気にとられたに違いない。

→写真 ミサイルに跨ったクレオパトラ(バルトリ)と3D映画の眼鏡をかけたシーザー(ショル)


ただテキストがいくらどろどろしていても、迫真的なものであっても、音楽はバロックのそれであって、音だけ聴いている分には、意外に乾いている。音による心理描写は、後のロマン派が作り上げたものなのだ。
そういう意味では、演出(美術を含めて)は、現代のオペラファンに、音楽とテキストを親密にさせる重要な機能をもっている。その事を、今回のレゼールとコーリエの演出は見事に示していた。

オペラにおいて、アリアは気分を歌い上げるのであって物語を進展させる事はない、それを進めるのはレチタティーヴォだとよく言われるが、その点は、バロック・オペラも全く一緒である。いや、その構図は更に極端だと言っていい。
アリアでは、その1行目にある心理告白のテキストが延々と繰り返される。
極論すれば、バロック・オペラのアリアでは、最初の節だけ歌詞を聴いておけば、あとは言葉を放って音楽を聴いていても、理解に全く問題は起きない。
そのまま素で演ずるとなると、情報過多で世知辛い世を渡り歩く現代人には、バロック・オペラは些か間延びし過ぎになってしまう。
その時、演出は、音楽もテキストも一切変える事なく、同一アリアの中でも色彩を変化させる等、いろんな手管の刺激を与える事ができるのである。
トロメーオのポルノ雑誌しかり、クレオパトラのミサイルしかり、列挙しだせば、切りがない。

今回初めて聴く事ができたチェチーリア・バルトリのクレオパトラは、妖艶で、セクシーで、軽妙で、且つ少女のような心も持っている。
コロラトゥーラも軽過ぎず、潤い感があって少し重さがあり、そして何より知性が漂う。
演出を含め、芸術監督である彼女の力によるところが大であったと、そう信じるに足りたのだった。
彼女の声で、多くの名手達がザルツブルクに集ったのであろう。
 
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