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2008年12月19日01:13

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デヴィッド・クローネンバーグ『ヒストリー・オブ・バイオレンス』

かわさんにこの映画を奨めて頂いたのは、10/1の事、コーエン兄弟の『ノーカントリー』についての日記の会話でだった。
もう2ヶ月以上も経つが、何とか年内に果たせて良かった。
<参>http://mixi.jp/view_diary.pl?id=946172019&owner_id=3341406

『ノーカントリー』とこの映画には、暴力の描き方の1部に重要な共通点も見出せた。

『ヒストリー・・』では、随分いろんなタイプの暴力が描き出されている。
対して『ノーカントリー』では、それは1種類のみだ。

『ヒストリー・・』に描かれている暴力の種類を、なるべく単純化して類型的に言い表してみると、
1)理由なしの凶暴な暴力、”素の暴力”とでも言えるか。
2)弱い者いじめ。
3)その仕返し。
4)正当防衛。
5)マフィアやヤクザの掟、歯には歯を、死には死を。
それぞれには勿論重なり合う部分がある。そしてどんな暴力も、また新たな暴力を呼び、連鎖していく。

2)〜5)は、正当か否かは別として、それなりの理由が暴力にある。
対して1)にはそれがない。無差別で原初的な暴力だ。精神や性格異常者によるものとして位置づけられる事も多い。快楽がともなう場合もある。
現代はこの類が増えていると言われる。一般市民には理解のできない事件が増えているとマスコミは言う。

しかし、この1)の暴力や異常性であっても、それらが形成されるに到るには、何がしかの背景があるに違いなく、軽々しくここにいろいろな事件を当てはめてしまうのは、差別を引き起こすだけであって、何の解決も引き出さず、大変危険だと思う。
ここからは、”社会の暴力”という次元の異なる暴力が姿を現わしもする。

『ノーカントリー』では、異常をただ異常として置き(仕訳け)、その異常性の描出にだけ力を払っている。その理由や背景に立ち入ろうとしない。
ある人物を異常だと決めてしまったら、その途端、自分は善意の正常者で、異常者とは異なる世界に住んでいるのだという棲み分けができてしまう。
そういうある種安穏の内で、異常者の異常な事件、自分とは別世界の事件を扱っているという姿勢が、『ノーカントリー』の制作には感じられる。

『ノーカントリー』についての日記でも書いたが、悪は人間と人間の関わりの中で生まれる筈のものなのだ。
同じ人間と人間が、ある時は前者が、ある時は後者が、その状況や関係性や成り行きによって、どちらもが悪に転ぶ可能性があるのだ。

そういう理解に基づいて言うなら、『ヒストリー・・』は、悪を、暴力を描いて、しかしその表層に留まる事なく、人間や組織(家族も含めて)、更には社会、そういった密林の内奥に分け入っている。そこを私は評価する。

マフィア時代の過去を闇に葬り、遠く離れた場所で、名前も偽り、普通の人間として普通の生活を始めようとする男トム・ストール。普通の女を愛し、子供も産まれ、家族を形成する。
経営する食堂での偶然の正当防衛事件が、地域のヒーローとしてマスコミに担がれ、マフィアに知られるところとなる。
或る日、黒い車が店の前に停まり、彼を旧名で呼ぶ。妻はその名を知らない。
ストールも否定するが、その日から、一方的に暴力が生活の場に入り込んでくる。最初は事荒立てる素振りも見せず、しかし、徐々に、マフィアの本性が爪を剥く。

もう一度事件は起こる。今度は家族の目の前で、ストールはマフィアを撃ち殺す。今度も正当防衛の行為ではある。
しかし、妻は、夫の体の動き、銃の扱いに、拭い切れない何かを感ずる。
それは次第に不信、疑惑となって、妻や子供達の心の中に拡がって行く。
ひょっとしたら、過去の夫は、マフィアが言っていた通りの人間だったのかもしれない。

この暴力によって揺さぶられる人間と人間の表現が実に素晴らしい。クローネンバーグは、それを言葉での説明に頼らず、人の動きの中に描出する。

例えば、自宅の階段での夫婦の性交の場面。
夫は妻の心中に疑惑の渦巻くのが判る。しかし、妻を家族を失いたくない。けれども、疑惑を断ち切って信頼を勝ち取る為の手立てはない。
妻は、夫を信じたい気持はあるが、目の前で見てしまった殺人、その時の夫の動きが、何度も目蓋の裏に帰ってくる。
夫は妻に触れようとする。妻は逃げ、階段を駆け上ろうとする。夫は妻の足首を掴む。愛情なのか性欲なのか、心の関係は空転する中で、それだけが2人の肉体を衝き動かす。2人は、階段で、行き場のない、やるせない、暴力的な性交に陥る。
否定と肯定の狭間で揺らぐ生身の人間の姿を描き出して、極めて秀逸なシーンだった。

このように、『ヒストリー・・』は、多岐な暴力を描き、それを生み出す人間と、それに翻弄される人間を、我々の前に提示した。
しかし、解決の道を指し示す事はできない。
これが人間の本質なのか。
故郷に帰り、元凶であるマフィアのボスで兄でもある男を撃ち殺したストールは、明け切らぬ朝、兄の豪勢な邸宅の庭の池の傍にくずおれ、返り血を洗う。まるで贖罪の受洗のように。

疲れ果てて再び戻る自分の家では、家族が食事をしている。
幼い娘は、父の前に皿とナイフとフォークを並べ、高校生の息子はパンを差し出した。
血のワインは既に流され、キリストの肉たるパンが用意された。多くのアメリカ人はそう理解したかもしれない、救いは宗教にしかないと。
妻と夫は、互いを見つめ、交わす言葉は見つからないが、目には涙が滲む。
この先、この家族にどんな事が待っているのか、誰にも判らない。


監督 デヴィッド・クローネンバーグ
脚本 ジョシュ・オルソン
撮影 ピーター・サシツキー
出演 ビゴ・モーテンセン,マリア・ベロ,エド・ハリス,ウィリアム・ハート
受賞 全米映画批評家協会賞監督賞/助演男優賞 他多数
2005年米・加合作
 
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