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2008年12月12日21:31

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宮崎駿『崖の上のポニョ』

12/10(水)、東宝シネマズ・サンストリート浜北で『崖の上のポニョ』を観る。

宮崎駿が監督をした長編アニメーションは、その第1作『ルパン3世カリオストロの城』(1979)以外、全て観てきている。
今回の映画を見ながら、まず第1に、最近の宮崎駿作品から少し画風が違うように感じられた。
あるシーンまたある部分では大変な単純化がなされていて、最近の、画面中何処でも彼処でも、これでもかと微細な動きにこだわる、そんな風ではない。

崖の上の家から、5歳の主人公”宗介”が、草叢の中の急峻な小道を下りていく場面等、回りの丈高い草々は塗られた1枚の絵のままで動きは全くない。
母リサと宗介の通う、老人ホームと保育園が隣り合わせになった施設の描き方等、絵本から出てきたかのようだ。
人物の身体,衣服のカラーリングも、光や影に拘泥せず、面として意外に単純なペインティングだ。

でも、坂道を下りていく宗介の脚の運びや腰の使い方、肩や首の連動等、例えば目の前にある障害物を跨いだり避けたり・・・、そうだよね、子供って、両手にバケツみたいな大きな物を持ってたら、そんな風に動くよね、と、子供への視線には、宮崎の深い愛情を感じて、溜め息が出てしまう程だ。
同じ行為をするのでも、子供がやるのと大人がやるのとでは、その動きは大きく違う、当然のようで、なかなか気付かない事だ。

さて、宮崎作品では、トンネル(のようなもの)をくぐって異界に入るという導入がままある。
『千と千尋の神隠し』(2001)でもそうだった。
これは今回も同じ。トンネルは、現実世界から異界へ次元の切り換わる場所だ。

トンネルのひとつは、前述した、草に覆われた崖の道。これを通って、海という異界に宗介は対面する。そこでポニョに出会う。
海は生きている。海は謎に満ちている。どんな事が起こってもおかしくない。どんなものが現れてもおかしくない。
『もののけ姫』(1997)では深い森がそうだった。
ある意味では、閾下の精神世界とも通ずる。理解の及ばない心の奥底。いわば神経症の深い根っこ。
「神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである」と、宮崎はこの映画の企画意図の中で言っている。
そんな時代であるなら、神経症に夢を重ねて愉しむのも、またひとつの行き方ではある。

宮崎は、『ハウルの動く城』(2004)の後、夏目漱石全集を読み耽ったと、パンフレットのノートで触れているが、この繋がりは、ひょっとして神経症の道筋でもあるかもしれない。
漱石の『門』の主人公は”宗助”といって、”崖の下の家”に住んでいるのだ、とも。これは、実に偏執狂的で愉しいイメージ粘着だ。

更には、『草枕』の中で、漱石がジョン・エヴァレット・ミレイの描いた『オフィーリア』に接して深い感銘に囚われた記述がある事に触れ、宮崎本人、わざわざナショナル・ギャラリー迄観に出かけて行ったらしい。もう少しタイミングがずれたなら、渋谷のBunkamuraで観れたのに(笑)。
ちなみに『草枕』は、あのグレン・グールドの愛読書でもある。これも神経症繋がりか。

それはともかく、この川面を流れるオフィーリアの図像は、映画の、海面下を行くグランマンマーレにイメージが繋がっていったに違いない。
彼女は、名前の語呂の通り、海の生を統べる大いなる母神。泡から生まれ、海面の下をユラユラと漂う。その美しさは、まるで海面に照り映えたルナ(月)のようにも見える。
海の干満は月の影響で引き起こされる。フロイトを呼び出す迄もなく、海と月と女は、同じ連想世界に繋がっている。


もうひとつのトンネルは、半島の山の中腹、古く、今は使われていないもの。人も車も通らず、小さいのに、向こうから光は見えない、吸い込まれるような暗闇が棲息している。
宗介と手を繋ぐ、元は海の金魚のポニョは言う、「ここキライ」。
トンネルの向こうの異界は、ある時は夢に溢れ、またある時は、生を吸い取る悪魔が棲む。
自由の利かないがんじがらめの現世よりも、もっと恐ろしい場所かもしれない。
ポニョは偶然得た魔法の力を、このトンネルで失いかけ、萎えてしまいそうになる。

宮崎のアニメにはユートピアが繰り返し現れる。しかしそれはなかなか複雑な様相を見せるユートピアで、単細胞で能天気なユートピアではない。一筋縄ではいかないユートピア、時に挫折感が伴い、悲しさの色が透けて見え隠れするユートピアだ。
これは、宮崎の現世感、現実感に由来しているのだと思う。
現実の何ともならない厳しさ、抜き差しもならぬ現世、神経症にならざるを得ない時代、だからこそ、ファンタジーが必要で、そこにユートピアが必要だ、そう宮崎は感じているに違いない。殊に子供達には。
彼のユートピア世界が単純でなく、何とはなしに挫折感が伴うのは、そんな現実感が背景にあるからだろう。

ポニョと妹達はグランマンマーレとフジモト(元は人間だが、人類の破壊的性格に嫌気がさし、今は魔法使いとして、海の底で、新しい時代の為の準備をしている)の間に生まれた子であるが、フジモトは海の女神グランマンマーレを独占できない事を認知しており、ポニョ達を男手で育て、”生命の水”の実験をしながら、世界の海を行くグランマンマーレの到来を待っている。
フジモトの複雑な境遇と存在性に、宮崎自身を見るようで、そこに悲しみも漂う気がするのは、私だけでないのではなかろうか。

一方のトンネルをくぐると、ユートピアに繋がり、しかし、彼のペシミズムは、もう一方のトンネルも用意せざるを得ない。暗い、先の見えないトンネルだ。


物語には、違う次元の柱がある。
それは、人と人(生き物と生き物と言った方がいいか)の約束の大事さだ。

フジモトの住む海底の”サンゴ塔”、その閉塞世界から偶然飛び出してきたポニョの初めて会ったのが、宗介である。
閉塞世界にいたポニョは、ここで初めて、異なる心と心の触れ合いを経験する。
そこで生まれた感情が「宗介、すきー」であるのは自然であるし、良い事だった。
そして、交わされた約束、それが宗介の「ぼくが守ってあげるからね」である。
ポニョが金魚であろうと、半魚人であろうと、約束した事は最後迄守る。この約束を守る少年の姿は、何とも凛々しい。

この世は、日本の、2人続いた約束を放り出す総理大臣や、某与党政権を例に出す迄もなく、口先だけの約束反古の何と多い事か。
約束を破るのが大人の世界、子供達からそう見えて何ら不思議はない。
人間の無制限な欲望の充満、地球に対する約束反古、それらの生み出した結果が地球温暖化であるというロジックは、あながち唐突過ぎもしない。
この映画で発生する不思議な嵐は、ひと晩で半島の殆どを水没させ、人々の生活を水の下に閉じ込める。
雨の上がった海を、宗介とポニョは、ろうそくの火で起こす小さな蒸気のポンポン船(元々おもちゃをポニョが魔法で大きくしたもの)に乗って、リサを捜しに行く。石油も石炭も使わない船であるのが面白い。
水面下には、沈んだ町や道路が見え、デボン紀の古代魚達が悠然と泳ぐ。
ここに、地球温暖化による海面上昇問題を象徴として見ない人は、まずいないだろう。

人として、生き物として、約束を守る事の大事さを、宮崎最後の長編アニメから、我々は感じ取りたいものだ。


プロデューサー 鈴木敏夫
原作・脚本・監督 宮崎駿
音楽 久石譲
作画監督 近藤勝也
美術監督 吉田昇
色彩設計 保田通世
 
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