マリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)は、パリの介護施設で働くディレクター。自身も介護に携わり、施設全体の運営や方針も担当する。
認知症の入居者が多く、彼らに対し「同じ目線を合わせ、介護の様子を言葉で説明する」という「ユマニチュード」と呼ばれる介護を実践しようとするが、施設の看護師・ソフィーなどは「研修に時間が取られ過ぎ」とマリーを批判。
ある日マリーは、路面電車に乗っていたところ、電車を追いかけて来るアジア系の青年を窓の外に見つける。危ないのではないかと気になり、途中で下車。
最寄りの公園でその青年・智樹(黒崎煌代)を見つけた。彼は奇声をあげたり、走り回ったり落ち着かない様子。彼が持っていたGPS装置を作動させたところ、まもなく駆けつけたのは、智樹の祖父・吾朗(長塚京三)、そして自分と同年代ぐらいの女性で、同じ名前の真理(岡本多緒)だった。
真理はマリーに、もしよかったら来てください、とシアターでの演劇のチラシを渡す。
ソフィーは辞めたい、というし、ほかにも辞職を申し出る従業員がいて、マリーはかなりストレスを感じていた。
気分転換のつもりで見に行った、チラシにあった演劇。
あの吾朗は俳優で、独り芝居で、イタリアの精神病院をテーマにした劇を演じていた。
孫の智樹も見に来ていて、舞台に乱入してくるが、吾朗も観客も気にしない。
真理は演出家としてかかわっていたのだった。
智樹は障害があったが、彼の両親の養育が不満で、祖父の吾朗が彼を引き取っていた。
劇の後の質疑応答で、マリーは日本語で真理に質問。実はマリーは日本に留学していたことがあるのだ。
真理の「不可能が可能になったら・・それは素敵なことじゃないでしょうか?」という答えに、マリーは共鳴し、その場で彼女と心が通じ合う。
意気投合した二人はそのまま、フランス語、日本語まじりの会話で、夜が明けるまで語り合う。
ソルボンヌ大学で哲学を学んでいたという真理。
「なぜか演出家の仕事をしているの」。
そして、ステージ4のガンを患っているという真理は「わたし、医者に言われてるの。急に具合が悪くなることがあるって」と言う。
マリーの働く介護施設の、かつての理事長室で、真理をもてなすマリー。
真理は、ホワイトボードに図を描きながら、資本主義社会の中で生きていくことの課題や困難をマリーに語る。
マリーの施設では新しい試みが。入所者の「自分史」を、家族らとともに、介護士や看護師たちを前に語る、というもの。そこでは息子から父親の批判が飛び出しもした。
末期のガン患者の真理は、空いている部屋に入居することになる。
そして「ワークショップ」として、入居者に足裏マッサージなどを教えるのだった。
しかし、真理は本当に「急に具合が悪く」なり、マリーは彼女に付き添って日本まで行く。
そこはひなびた京都の田舎だった。真理は、親と折り合いが悪く、なんとかこの町を出て行こうと、けっきょくフランスまで行ったのだ。
真理の古い実家で、マリーとお互い足裏のマッサージをして、いっそう絆を深めるふたり。
しかし、真理の命はもう長くはなかった。
濱口竜介監督作品、岡本多緒とヴィルジニー・エフィラがカンヌ映画祭で最優秀女優賞をダブル受賞したことでも話題になっている映画である。
マリーと真理が、一気に距離を縮め、あっという間に気心の知れた友人関係になる・・という過程が自然に描かれているのがいい。
ほぼパリでのロケのようだが、いわゆる観光名所の有名な街角でないのもかえって新鮮に見える。
川沿いで、何人かのグループが、ラテン音楽を奏でるシーンも印象的(この手の音楽がわたしは大好き)。
この作品、3時間16分の長尺。途中、内容がだれるような感じではないものの、さすがに最後の方はお尻が痛くなってくるなー、という状況だった。
考えたら、この1作の中に「認知症」「老い」「ガン闘病」「友情」「異文化交流」「障害者」といったテーマがぎっしり詰まっている。さすれば3時間以上の長さになるのもむべなるかな。
京都のシーンは、南丹市や京丹後市で撮影されたそうだ。
京都のカフェで真理とマリーが会うシーン、そばの川は高瀬川かな?と思ったらやはりそのようだ。
きっちりと設計され、丁寧に作られた、という印象の映画である。
長塚京三さんがあんなにフランス語がうまいとは、驚いた。
あと、猫好きのわたしとしては、白猫の「レオ」の登場に心が和みました。
(7月3日、T・ジョイ博多)
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