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2019年11月12日16:13

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細川重男『執権』(講談社学術文庫、2019年)を読む

 細川重男『執権』(講談社学術文庫、2019年)を読む。これは、『北条氏と鎌倉幕府』というタイトルで、講談社選書メチエから2011年に出版された。それがこのほど文庫化され、タイトルも改変された。

 この本のテーマをひと言で表すとすると、細川先生が書いているように「北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか?」である。その理由を、主に統治の理論(正当性)から検討しようとしたものである。

 2011年にこの本を読んだときの感想は、以下のブログに書いてある。

http://blog.livedoor.jp/ladder001/archives/52270280.html
http://blog.livedoor.jp/ladder001/archives/52270431.html
http://blog.livedoor.jp/ladder001/archives/52270614.html

 いまも読書の感想をここで書いているけれど、当時の情熱はどこへいったのかと思うくらい淡泊な感じになっていて、少し反省している。ただ、当時の私が一気にこれだけの感想を書けるほどに、この本に深く魅了されたのはよく分かる。

 実際に、この本をはじめとして、鎌倉時代の政治史は新書や選書のレベルでも大きく進展した。北条得宗(宗家)だけでなく、有力御家人や朝廷からの視点、その関係性を研究、分析するなかで、幕府の構造や変遷がより立体的に描かれるようになったからである。

 もっとも、鎌倉時代後期の政治史は、前期と比較しても不明な点が多い。最大の理由は、幕府の中枢にある人びとが編纂したと考えられる『吾妻鏡』の記述が、13世紀後半で終わってしまっており、それ以降の史料は断片的にしか伝わっていないからだ。そのため、政変があったことは分かっていても、それがなぜ、どのように展開していったのかがよく分からない。そのことは、鎌倉幕府滅亡の理由にも当てはまる。


 本の内容自体は、2011年のブログ以上のことを敢えて付け足すものではない。ただそこから8年あまり経っての感想などを以下に記しておきたい。

 「(北条)義時の人生を鳥瞰して見ると、本人の意思と無関係に次々に押し寄せる災難に振り回され続けであったとしか思えない。…(略)…義時は災難に直面するたびに、自身と周囲の人々を守るために戦い、結果的に勝利し続けただけに過ぎないのではないか。…(略)…義時の人生からは、常に「もう帰っていいですか?」という彼のぼやきが聞こえ続けているようである」(P.104〜105)

 この本の前半は、北条義時の半生を振り返りつつ、彼の実像とその後の伝説との違いを引き立たせる描き方になっている。細川先生が親しみを込めて書いているように、名執権と謳われた北条義時の行動は、どこか受け身で、積極的に自らの覇権を目指した人物ではないように感じられる。

 そもそも、一介の武士なら領主を目指し、領主ならば天下を狙うという認識自体、時代小説や歴史ドラマなどによって、さも当たり前のこととして私たちが意識しているだけのことではないか。北条氏が将軍にとって代わろうとしなかったのかという疑問は、藤原摂関家がどうして天皇にならなかったのかと同じく、現代人特有の認識に基づいたもののように思われる。

 少なくとも、北条義時が生きた時代は、源頼朝に従って治承・寿永の乱(源平の合戦)に加わり、頼朝亡きあとは御家人同士が幕府の主導権をめぐって争う事態が続いた。義時の行動は、そのなかで生き残るためという動機に基づいていると捉えて、おかしなところは特にない。そして結果的に生き残り、御家人の第一人者となったに過ぎない。
 極めつけは承久の乱で、伊豆の弱小豪族、しかも嫡男でなかった自分が、後鳥羽上皇によって朝敵として追討の対象とされてしまう。このとき、ほかにも有力な御家人は幕府に多く、彼らの支持なくしては勝つことはできなかった。坂井孝一『承久の乱』(中公新書、2018年)では、相模の大豪族・三浦氏の支持と協力が大きな意味を持ったと評価している。

 しかしこうした結果は、子孫たちに「偉大な父祖・義時」というイメージを抱かせ、その立場を踏襲しようとすることで、自らの権威を高めようとした。こうした振る舞いは、室町時代における足利将軍家でも見られる。
 それを最大限に「利用」したのが、北条時宗であった。父・時頼、外祖父・北条重時(義時の子)、そして一門の長老たち(北条政村、金沢実時ら)によってあらかじめ用意された執権・連署の地位に就くや、自らの障害になる可能性のある実兄・時輔、一門(名越流北条氏)を粛清し、独裁化を強めていく。その過程で蒙古の襲来が起こり、強力な専制政治と、非御家人すらも支配下に置く権力を得ていく。

 もっともこれとても、庇護者であった父・時頼が三十半ばで他界し、権力基盤が不安定ななかで連署、執権へ就任せざるを得なかった事情もあるだろう。このことは、時宗の嫡男・貞時にもいえることで、父(時宗)が三十前半で他界し、幼いうちに執権に担がれたのち、長じてからは権力掌握のため、側近・一門の粛清を行っている(平禅門の乱、嘉元の乱)。
 ただ、時宗がそれによって独裁体制を強めていったのに対して、貞時は逆に権力基盤を弱めることになり、次第に政務から遠ざかっていく。結果、側近(御内人)や外戚がこれを牛耳るようになった。

 鎌倉時代後期は、非御家人への支配権、西国統治に伴う全国政権化をめぐって、改革派と保守派の対立があり、それが政変の要因にもつながっている。また、畿内から貨幣経済が東国にも浸透しはじめ、社会の変化が幕府政治の不安定化にも結びついていったと捉えることもできる。

 結果的に、東国政権としてスタートした鎌倉幕府は、承久の乱を経て畿内を勢力下に納め、さらに蒙古襲来を機に西国にも支配権を確立しつつあった。支配領域の拡大が政治権力の成長と捉えるのならば、なるほど鎌倉時代末期は、幕府の絶頂期だったといっていい。
 しかし、東国の武家政権が戦乱や領域を拡大するごとに、どうにかこうにか政治体制をそれに見合うかたちにアップグレードさせていったものの、すでに臨界点を迎えつつあった。このとき登場するのが、正中の変、元弘の変を引き起こすことになる後醍醐天皇であり、足利高氏だったということになる。

 この本の後半は、北条義時の先例に倣い、曾孫の時宗の独裁を支える論理を説明している。ただ、時宗が蒙古襲来の対応の末に早世したのち、矛盾の傷口が次第に広がり、半世紀を経て滅亡した事実を知る者としては、摂関が天皇を支える地位であるのと同じく、執権が将軍を支える存在と規定しようとした時宗の思惑も、時代の流れには抗えなかったと判断するしかない。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000325892
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