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2019年05月09日12:37

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刑事事件と市民感情

 裁判員制度とは、刑事事件について、要件を満たした国民を裁判員として参加させ、有罪かどうか、量刑をどうすべきかという決定も裁判官とともに併せて考えるもので、いまから十年前の2009年5月からはじまった。裁判所のウェブによると、その目的は「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」ということのようだ。

 裁判員制度については、ある日突然、裁判所から通知がきて、支障がないと判断された場合には参加する義務を課せられる。そう頻繁にではないにせよ、通知がくる可能性は誰にでもあるし、参加すれば守秘義務なども発生する。事件についても、かなりショッキングなもの、死刑か否かという人の生死にかかわるものの決定も行わなければならないなど、改善すべき点、課題点も少なくない。

 ただ、この制度は市民意識を裁判の判断に反映させるということだけでなく、逆に市民が裁判や量刑の判断について、理解することのできる貴重な機会であることも無視できない。
 つまり、メディアなどでセンセーショナルに報道される事件についても、仮に犯罪の構成要件を満たさない場合であれば、被告に無罪が言い渡される。これに対して、感情的に厳罰を求めたくなるのは当たり前だ。しかし、その刑罰に当てはまらない、あるいはそれを十分に立証できない場合は、これを適用できない。司法制度はこうしたロジックの上に成り立っていることを、裁判の当事者になることによって学ぶことができる。

 たとえば刑事事件の場合、「被告はどう捉えても、〇〇という犯罪を行ったことは疑い得ない」という確証を得られてはじめて有罪となる。「無罪推定」といわれるものがそれだ。冤罪が起こらないように、極めて厳格な判断基準がある。
 しかし、ニュースなどで得られる情報からは、無罪と聞いても「なんで?」と視聴者は思いがちだ。その理由は、判決文などに書いてあるのだけれど、視聴者がそこまで確認することはないし、メディア側もそこまで踏み込んで報じないこともある。

 特に情報が氾濫している現代において、裁判官と市民の意識にズレは生じやすい。裁判員制度には問題も多いけれど、そういう現状を是正する点で無意味というわけではない。
 これらのことは、裁判員制度だけでなく、中学校などの教育現場や、法曹、メディアを通じてのはたらきかけなどを通じて、広げていく必要もあるだろう。もちろん、裁判官や法曹の常識が常に正しいわけではない。そこに市民の意識を踏まえていくこともまた、制度や法曹との議論を通じて進めていかなければならない。

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■裁判員制度「市民と裁判官、感覚違う」 経験者の46%
(朝日新聞デジタル - 05月09日 10:12)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5611713
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