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2019年01月18日21:08

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藤沢北部の歩き方

 もうお爺ちゃんなのかもしれないけれど、私はやたらと散歩をする。ただ行く当てはないのだけれど、途中で見つけた寺社や史跡などから、深掘りしていくのが専らだ。

 慶應義塾大学は、三田、日吉・矢上、そして医学部の信濃町だけでなく、湘南藤沢にキャンパスがある。略してSFCという。総合政策・環境情報学部があって、ほかのキャンパス、学部生との交流はほとんどない。
 湘南と名のつくところだから、きっと海が近くにあるのだろうなと思うと、えらいことになる。最寄り駅の湘南台(小田急・相鉄・横浜市営地下鉄)も、藤沢市の内陸部にあって、ちっとも湘南ぽさはない。そこから4kmほど西の高台にあるのが湘南藤沢キャンパスである。
 藤沢市というと、江の島から鵠沼、辻堂海岸があって、東は鎌倉市、横浜市、西は茅ケ崎市などが隣接する。ただ、市の北部は丘陵地帯になっている。戦後になって開発された地域は、閑静な住宅街になっているけれど、そこから外れたところは未だに畑が広がり、牧歌的な風景が残っている。

 市には東端に境川があって、これが藤沢市中心部を囲むように流れ、江の島まで続いている。中ほどには引地川が流れ、これは鵠沼に注ぐ。川そのものは大きくはない。しかしこれは得てして暴れ川になるパターンである。大雨が降ると、洪水なども起こりやすく、地主たちは堤防、河川の改良などを繰り返し行っていた。
 また、内陸では丘陵地のため、川から水が引っ張れず、稲作には不向きだった。そこで近世は養蚕が盛んだったそうだ。関東の丘陵地でよく見られるケースである。半世紀ほど前にはあちこち雑木林も広がっていたとは思われるけれど、開発がはじまった時期は比較的早い。一帯を大庭御厨といって、「御厨」の名のとおり、伊勢神宮の荘園として開発、発展したとされる。SFCから南西に、大庭城址公園というのがあるけれど、これもその名の通り、大庭城があった場所である。古くは大庭御厨を開発した一族の居城で、戦国時代には太田道灌(江戸城を築城したことで知られる)や後北条氏の拠点にもなった。

 大庭から北は、戦後にニュータウンとして開発が進んだ。ただSFC近くは、そこから漏れているので、上述したように畑が広がっている。キャンパスができてそろそろ30年になるから、周辺に鉄道が延長してきたり、街が広がったりしてもいいようなものだけれど、計画はともかく、未だに大きな変化はない。
 ただ私は、そういう雰囲気が好きである。中小の農地があって、ところどころでたき火の煙があがるのは、見ていてほっとする。そしてそこここに神社や小さな祠がある。宅地化がされないぶん、そうしたものがよく残されているのだろう。

 そんな牧歌的風景から、藤沢界隈の昔を想像してみる。宅地化したところも、多くはそんな感じで畑が広がっており、川の近くには水田もあったのだろう。
 もっとも、中世からは鎌倉も近いために、有力な御家人や武将たちが支配していたはずである。そういうことを考えながら、あちこちを歩いているだけで楽しい。
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