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2019年11月24日22:03

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文芸大聴講「国際文化入門C」第8回〜イベリア半島(続き)

静岡文化芸術大学の授業「国際文化入門C」の聴講第8回目。

講師 石川清子
テーマ イベリア半島〜文明の拮抗/融合、イスラームの足跡(続き)

◆トレドとアンダルシア地方の3都市

アラブ/イスラーム文明が残した建造物。また、ヨーロッパ/キリスト教勢力側はレコンキスタによって、それらをどのように奪取したか?

1) トレド
イスラーム勢力が入る前の西ゴート王国の都。8〜11世紀のイスラーム時代に繁栄した。
1560年、フェリペ2世のマドリード遷都迄、政治・文化の中心地。

2) コルドバ
後ウマイヤ朝(アンダルシアの最盛期をもたらしたイスラーム王朝〜1031)の首都。11〜13世紀の学問中心地。
繁栄期の推定人口100万人とも。当時の西欧都市人口はせいぜい3万人程度の時代に。
メスキータ=東のメッカに対抗する巨大モスク、178m×125m。

3) グラナダ
1241〜陥落迄繁栄を極めたイスラームの王国都市。
アルハンブラ宮殿=アラブ/イスラーム建築の極致。
パティオ(中庭)様式構造。イスラーム式庭園の特徴。(*1)

(*1)各地に残るイスラームのパティオ(中庭)様式を見る。
・コルドバ 開放的で外からでも見える。
壁上部は白色。石灰を使用。強い太陽光の反射を防ぐ事ができた。
下部は装飾タイル。
・モロッコ 閉鎖的で中庭は外からは見えない。
何れにも噴水はあり、緑の植栽と伴に、パティオにはなくてはならないものだが、水の流れは静かで、フランス式庭園の豪華で大規模なものとは全く異なる。

4) セビリア
711〜1248迄イスラーム支配下のアンダルシア文化・商業中心都市。
(→のちの大航海時代の起点港、グアダルキビール川によって内陸の港となった。新大陸からのふんだんな金、カトリックの顕示。)
大聖堂(カテドラル)のヒラルダの塔。
アルカサル宮殿=ムハデル様式(レコンキスタ後のカトリック支配下に留まったムスリムによって建造された)。

・「ムデーハル」;キリスト教統治下でのイスラーム教徒。
・「モリスコ」;キリスト教に改宗したムスリム。アラビア人残留者という意味もあった軽蔑的言葉。改宗は表向きで、実際、家の中ではイスラームだった例が多い。
・「モサラベ」;イスラーム統治下で、その文化やアラビア語に順応したカトリック教徒。
・「ムデーハル」または「レネガド」;イスラームに改宗したキリスト教徒。反逆者という意味も。
・「コンベルソ」;キリスト教に改宗したユダヤ人。
・「マラーノ」;キリスト教に改宗したユダヤ教徒。ブタ、汚い奴という侮蔑語。ユダヤ人はブタ肉を食べない事から。(*2)

(*2)イベリコ豚等、スペインでは名産品だが、イスラーム,ユダヤ教で豚を食べる事が禁じられているため、彼等の嫌がらせ、排除目的で豚を飼ったとの説もある。

◆移動する人々、混交する文明・文化

◇ユダヤ人
・ディアスポラ(紀元後1〜2世紀)
「ディアスポラ」;(根こそぎの)離散、散在を表すギリシア語

ユダヤ戦争=1〜2世紀、パレスチナのユダヤ人がローマ帝国に対して起こした解放要求戦争。
鎮圧され、ユダヤ人の離散が始まった。
パレスチナは、紀元6年からローマ帝国の属州として支配されていた。
そのパレスチナで、1世紀後半〜2世紀にかけて、ユダヤ人の反ローマ闘争が起った。
66〜70年の第1次ユダヤ戦争は、ウェスパシアヌスの率いるローマ軍によって鎮圧された。
131年の第2次ユダヤ戦争はローマ皇帝ハドリアヌスの派遣したローマ軍により鎮圧された。
これにより、ユダヤ人は地中海各地の離散していく事となった。

・中世ヨーロッパでの、ユダヤ人の主たる居住地は現スペイン(「セファルディーム」)とドイツ周辺(「アシュケナジーム」)。

フォト

関哲行著『スペインのユダヤ人』(2003山川出版社)より。
12〜13世紀(レコンキスタ完了以前)のトレドの街の民族混交状況を示す。

711〜3世紀の間、イスラームがトレドを支配。
1085 カスティーリャ王国がトレドを奪還。
城塞は、のちアルカサス王宮になるが、それ以前の状態。
街の中央には大モスクがあったが、その建物を使用してトレド教会に造り直しをしている。
モスクの北側にはシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)がある。
街の西側には、ユダヤ人街がかなり広いエリアを占めて存在する。そのエリアの中にもシナゴーグが複数ある。
2世紀のユダヤ戦争後、パレスチナを追放(ディアスポラ)されたユダヤ人がイベリア半島に流れ着き、ここらに固まって居住した。
彼等は(ギルドに入れず)生産業には就けなかったため、金融業か無店舗の行商、音楽他芸能活動等を行うしかなかった。
城壁の外、北西にはモサラベ墓地がある。「モサラベ」とはイスラーム統治下のキリスト教徒の事で、そこからイスラム教がキリスト教の存在を少なくとも迫害したりしていなかった事が分かる。

以上のように、3宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラーム)徒達は対立せず、うまく住み分けていたようだ。
共に自身をマイノリティ、弱者の立場であると認識していたためではないか。
これが、レコンキスタ運動が激しくなると伴に、キリスト教が非寛容の姿勢を強めていく。
イスラーム・ユダヤ人はイベリアを追い出され、残った人々はキリスト教に改宗させられた。彼等は「モリスコ」や「マラーノ」と呼ばれ、改宗しても軽蔑され差別された。
1492年レコンキスタ完了の年には、ユダヤ人追放令が発布され、改宗した「コンベルソ」もその対象とされた。1609年にはモリスコ追放令迄も発布された。

レコンキスタ以降の流れ。
(レコンキスタより、キリスト教は非寛容の色彩を強めていく。)

1391 13世紀半ばのペスト大流行はユダヤ人がもたらしたと信じられた。→ユダヤ人虐殺(ポグロム)。
1492 ユダヤ人追放の勅令(コンベルソも同じ扱いを受けた)。
1526 イスラーム信仰禁止令。
1609 モリスコ追放令。

・第2のディアスポラ(15世紀後半)
ロマ(ジプシー/ヒターノ);現在でも全スペイン1/3のロマがアンダルシアに住んでいる。ムスリムが去った穴を埋めた格好となった。
新大陸発見後は、アメリカ大陸へも渡った。

フォト

小岸昭著『離散するユダヤ人』(1997岩波新書)より。

実線矢印→;
中世迄に、アジアからイスラーム圏に移住したユダヤ人の流れ。
イスラーム勢力に乗って、主にスペインに定住した。(これを「セファルディ」と呼んだ。複数形が「セファルディーム」。)

破線矢印→;
1492年グラナダ陥落によって、レコンキスタ完了。同年、現スペインからユダヤ人追放令。
1497年には現ポルトガルからもユダヤ人追放令。
スペインを追われたユダヤ人は、様々なルートで他の地へ散っていく。

グラナダ→北アフリカ(モロッコ、アルジェ、トリポリ等。または、一旦ポルトガルのリスボンへ、そしてポルトガルでも追放令に遭い、モロッコのフェズやブラジルへ、北方ルートではアムステルダム、ハンブルクへ。

マドリード→一旦リスボンへ、その後上と同様。

バレンシア→チュニジアのトリポリ、パレスチナ、バグダッドへ。またはイタリア半島南端、ヴェネツィア。またはバルカン半島のサロニカ、アードリアノーブル〜黒海西のルスチュク、イスタンブール等へ。

バルセロナ→イタリアのジェノヴァ、リヴォルノ、ローマ、ナポリ等へ。
 
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