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2019年03月04日14:34

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映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』

3/1(金)、シネマe~ra浜松で『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』を観る。
同映画の上映最終日だった。

アストル・ピアソラは1921年3/11にアルゼンチンの避暑地マル・デル・プラタに生れ、1992年7/4に同ブエノスアイレスで死んだ。71歳だった。
この映画は、ピアソラ没後25周年である2017年に製作された。

2017年、アルゼンチンではピアソラの回顧展が行われた。
映画は、彼の息子ダニエルがその回顧展について企画学芸員から説明を受けつつ自分の意見も言っている、そんな場面から始まる。
映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』は、息子ダニエル(1945- )の視点で、彼を回想の語り手として作られている。

ダニエルは、父が1970年に結成した電子八重奏団に1975年よりシンセサイザー奏者として加わり、4年間一緒に世界を回って演奏活動をした人物で、家族としてまた音楽家として、父のすぐ近くにいた。
映画には、家族で過ごすピアソラ達の私的映像がちりばめられているが、それらはダニエルが提供したフィルムである。

ダニエルには2歳年上の姉ディアナ(1943-2009)がいた。
彼女は1987年に発行された父の伝記『アストル』を著した人物である。
映画には、伝記制作のために彼女が父に行ったインタビューのカセットテープ音源も繰り返し使用され、ピアソラの肉声と言葉を我々は聴く事ができる。
2009年に彼女は亡くなっているので、この映画に直接参画する事はできなかったが、インタビューで重要な役割を果たしている。

映画を構成するもうひとつの重要なものは、ピアソラが出演した演奏会の収録フィルムや写真である。
古いものはモノクロ映像が多い。粒子の粗いものも多いが、ピアソラの音楽を知る上では重要なものだろう。
但し、ひとつのコンサートフィルムを通して流すのでなく、ハイライト的に編集されて、あちこちに挿入される。
ピアソラは、初期は(18歳〜)既成のアニバル・トロイロ楽団等に加わり、その中でバンドネオン奏者として次第に頭角を現わしていくが、限界を感じて脱退、自身の五重奏団や八重奏団他を作っては解散を繰り返した。
したがって、フィルムに写されている演奏形態はさまざまである。
最後の圧巻は、フルオーケストラと共演したバンドネオン・コンチェルトでソロを演奏するフィルムである。

アストル・ピアソラとは一体何者だろうか?
改めて問われると、地球の裏側に住む日本人である我々は、それに答え得るものをあまり持っていない。
屈指のバンドネオン奏者、名曲《リベルタンゴ》(1974)《アディオス・ノニーノ》(1959)等の作曲者にして、タンゴ音楽の改革者、まあそのくらいのものだろうか。
彼の生涯についても、殆ど知らない。
この映画は、父を一番知る息子ダニエルを語り手として、母国アルゼンチンで製作されたものであるため、ピアソラについてはかなりの部分を既に知っているという前提で作られている。
彼の生涯を丁寧になぞるというような展開にはなっていないし、音楽もハイライトを切り貼りしているため、その両面共日本人観客に満ち足りたものとは言い難い。
最初の妻デデ・ウォルフ他の女性関係は、ピアソラにとって重要な要素の筈だが、(故意にか)曖昧にしている。
そういう意味ではやや残念ではある。事前に勉強しておくと良かった。

ピアソラ以前のタンゴという音楽は、踊りのための伴奏音楽でしかなかった。
強いリズムと単純なメロディ、それで充分だった。
ピアソラは、ピアノや作曲家の師(*1)につく等してクラシック音楽も学んでいる。
また、4歳の時に家族とニューヨークに移住して10年間を同地に過ごし、独立してからはパリに留学したり、またイタリアやアメリカ他各地に拠点を移動して活動する等、外の広い世界からアルゼンチンを見る視野を養っている。
そうした彼からすると、踊れればいいだけのタンゴは不充分な音楽だった。限界を感じ、タンゴから離れた時代もあった。
バロック的ポリフォニックな要素を作曲・編曲に加えたり、ジャズ的な和声や掛け合いを加えたり、また、自身結成したグループにはピアノやエレキギターを入れたりして、実験的とも言える改革を行っていった。
タンゴの保守派層からは、「踊れないタンゴ」と括られ、反発を招いた。「タンゴの破壊者」と罵られる事さえあったらしい。
代表作《リベルタンゴ》のタイトルは「libertad(自由)」と「tango」を合わせた造語だが、政治的立場だけでなく、タンゴという音楽をもっと自由に作りたいという、彼の音楽的な願望も併せ持つと言われる。

ピアソラの演奏と創作の評価はクラシックや現代音楽の分野から、また欧米から始まり、次第に母国でも認められていくようになった。
日本でも1980年代に4度公演があったとの事だ。
映画音楽(*2)も多数担当するようになった。

彼のバンドネオン演奏フィルムを見ると、大変に息を長く持ち、その中でかなりアドリブが加えられる。
そして、ヴァイオリンとの歌い合わせ等、ため息が出そうになる程だ。

(*1)
アルベルト・ヒナステーラ(1916-83/アルゼンチン)
ナディア・ブーランジェ(1887-1979/フランス)


(*2)
『サンチャゴに雨が降る』/監督エルビオ・ソト(1975)
『リュミエール』/ジャンヌ・モロー(1976)
『アルゲマドン』/アラン・ジェシュア(1977)
『エンリコ四世』/フェルナンド・ソラナス(1984)
『スール その先は…愛』/同(1988)
『ラテンアメリカ 光と影の詩』/同(1992)



監督・脚本 ダニエル・ローゼンフェルド
撮影 ラミロ・シビタ
編集 アレハンドロ・ペノピ

2017年/アルゼンチン,フランス
 

私が持っているピアソラ作品集

CD『ヨーヨー・マ・プレイズ・ピアソラ』
・収録曲
《リベルタンゴ》、《タンゴ組曲(アンダンテ,アレグロ)》、《南:愛への帰還》、《ル・グラン・タンゴ》、《フガータ》、《追憶のタンゴ》(*3)、《ムムーキ》(*4)、《現実との3分》、《天使のミロンガ》、《タンゴの歴史》より第2曲〈カフェ1930〉。

チェロ ヨーヨー・マ
ヴァイオリン アントニオ・アグリ
ギター オラシオ・マルビチーノ他
バンドネオン ネストル・マルコーニ
ベース エクトル・コンソーレ
ピアノ キャサリン・ストット他
・録音 1997年

(*3)《追憶のタンゴ》のみホルヘ・カランドレリ作曲、他は全てピアソラ作曲。
(*4)《ムムーキ》のみバンドネオン ピアソラ(1987録音)。
この音源とヨーヨー・マが幻のデュオを演じている。


CD『アストル・ピアソラ』
・収録曲
《リベルタンゴ》、《アディオス・ノニーノ》(*5)、《タンゴの歴史》(*6) (第1曲〈酒場1900〉,第2曲〈カフェ1930〉,第3曲〈ナイトクラブ1960〉,第4曲〈現代のコンサート〉)(1986)、《ブエノスアイレスの四季》(〈秋〉,〈春〉,〈冬〉,〈夏〉)(1965-69)、《タンゴ組曲》(1983)より第2曲アンダンテ。

指揮 チョン・ミュンフン
オーケストラ サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団
バンドネオン エクトル・ウリセ・パサレジャ
ピアノ ルイス・バカロフ
フルート パトリック・ガロワ
ギター イョラン・セルシェル
・録音 1996,1999

(*5)「ノニーノ」はピアソラの父の愛称。
1959年に父が死んだ時、ピアソラは舞踊団と伴にプエルトリコ巡業中だったため、死に目に会えなかった。父に捧げた別れの曲である。

(*6)タンゴの歴史を、30年刻みで追い、誕生から現在迄を表わしている。
第1曲は「酒場」でなく「売春宿」と訳している場合もある。タンゴという音楽は、19世紀末、ブエノスアイレスのこうした場所で、フルートとギターによるダンス音楽として生まれたらしい。
 
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