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2019年01月08日15:01

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小笠原弘幸『オスマン帝国』(中公新書、2018年)を読む

 小笠原弘幸『オスマン帝国』(中公新書、2018年)を読む。勃興から滅亡に至る600年の通史であり、質量ともに読みごたえがあった。

 オスマン帝国は、13世紀末のアナトリア(東アジア)北西部において、ムスリムの信仰戦士(ガーズィー)たちのなかで、オスマンが率いた集団がその起源だという。当時のイスラム世界においてアナトリアの北西部は、世界の果て、辺境に位置した。ビザンツ帝国とも隣接する場所であったから、信仰も厳密なものではなく、異端すれすれの神秘主義に傾倒していたという。オスマン帝国は、のちにイスラム世界の指導者を自認していくことになるけれども、宗教的には寛容な姿勢をとった背景も、こうしたところから発したのかもしれない。

 武装集団から小侯国、そしてビザンツ帝国を含む周辺に侵攻を繰り返していくなかで、16世紀後半には東はペルシャ湾を臨み、北は黒海北岸、南はエジプト、地中海沿岸、そして西はバルカン半島に至る大帝国を築いた。ローマ帝国を起源とするビザンツ帝国もまた、オスマン帝国の版図に組み込まれ、建国から千年ののち、滅亡している。

 一般的に、オスマン帝国の全盛期はこの16世紀後半に最大版図を築いたあたりまでと理解され、あとは内紛とオーストリア、ロシアの勢力伸長になすすべもなく弱体化したと考えられている。しかしこの本では、社会の変動に応じて、スルタン(皇帝)の集権化、帝国の分権化、既存の制度の改廃などが続けられていったことを強調している。
 内紛が繰り返されたことは事実だけれども、それは帝国内の利害調整のなかで克服され、結果的に体制そのものの崩壊を抑制することにつながったと述べている。この視点は、他の王朝を語る上でも示唆に富むものではないだろうか。

 宗教的寛容さは、帝国内に生きる他宗派の人びとにとっても当時としては悪くないものであった。加えて、帝国としてのアイデンティティも、イスラム世界の王、遊牧民の後裔といった、多様かつ重層的なものであった。
 そうしたなかで、イスラム世界における「世論」が社会の原動力になっていく。中央集権化を目指すスルタンに対して、帝国内のさまざまなアクターが、時代に応じて「世論」を代表する存在として行動した。結果的に、不十分とはいえ、帝国は「民主的な」制度を持つようになっていく。「柔らかい専制」と呼ばれる所以である。

 一方、18世紀末から西洋列強によって領土は喪失していった。それは同時に、複数のアイデンティティを有する帝国の柔構造に対する挑戦でもあった。すなわち、民族の自立、同質な国民国家の形成という西洋的価値観の急激な流入の前に、帝国そのものが大きく動揺したということである。20世紀に入り、バルカン戦争、そして第一次世界大戦を迎えるなかで、帝国はついに崩壊に至る。

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 私たちは歴史的に、国家を地図上から最大版図を得た時点を起点とし、その盛衰を見てしまうところがある。確かに、国として勃興し、周辺を従えていく勢いを繁栄と理解することは不自然ではない。
 けれども、領土の拡張が抑制されるなかでも、たとえば人口が増加したり、経済規模が拡大したりすることはある。文化の爛熟期というのも、一般的には国家の秩序が落ち着いた頃に訪れる。

 オスマン帝国が仮に16世紀後半を頂点に、衰退を迎えたとすれば、それから350年もの間、国家としてまとまりを持てたはずがない。モンゴル帝国やティムール帝国は、一気に版図を広げたけれども、オスマン帝国ほどの長期政権とはならなかった。
 国家については、単に版図だけでなく、その国内外の変化に政権がどう対応し、また変質していったのかを詳しく見ていく必要がある。オスマン帝国の盛衰は、それを学ぶ恰好の歴史といえるかもしれない。

http://www.chuko.co.jp/shinsho/2018/12/102518.html
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