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2017年04月14日20:00

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(3)

72年という年は、54年2月19日、蔵前国技館で力道山、木村政彦組vsベンとマイクのシャープ兄弟による初のプロレス国際時代から2度目のプロレス冬の時代でした。

最初のプロレス冬の時代は58年8月27日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで力道山がルー・テーズを破りインターナショナル王座を獲得した後でした。

当時は力道山とテーズの試合は「世界選手権」と報道され、力道山がテーズに勝って世界一になった、と伝えられました。

「我らが力道山がテーズに勝って世界チャンピオンになった」と思った一般大衆はこれで満足してしまい、プロレス人気は停滞。

翌59年、力道山は5年後に開催が決まった東京オリンピックになぞらえ、各国の代表がシングルのリーグ戦で覇権を争うプロレス版オリンピックの開催を発案しました。

それがワールド・リーグ戦でした。力道山は「プロレスオリンピック」と命名したかったですが日本プロレス宣伝部長だった押山保明がワールド・リーグ戦(ワールド大リーグ戦とも言う)を主張。

力道山が折れてワールド・リーグ戦に決まりました。メキシコ代表ジェス・オルテガ、ハンガリー代表キング・コング、インド代表ターロック・シン、覆面代表ミスター・アトミック(クライド・スチーブンス)ら世界の強豪が日本マットに来襲。

これが起死回生の大ヒット興行となり、プロレス人気は回復しました。

2度目のプロレス冬の時代、何回も書いていますので詳細は割愛しますが、隆盛を誇っていた日本プロレスが分裂。猪木が新日本プロレスを、馬場が全日本プロレスを旗揚げ。

国際プロレスと併せて男子4団体時代となり、プロレスファンは馬場、猪木、坂口、大木金太郎、吉村道明を全員見るのに今まで1枚のチケットで済んでいたものが、3倍のチケット代と交通費と貴重な時間を要するようになり、プロレスは地盤沈下してしまいました。

馬場、猪木の2枚看板も独立したら思ったほどの人気はなかったことを身に凍みて味わうことになります。

やはり、脇を固めるメンバーが興行的に弱く、テレビ放送がなかった新日本はもちろん、プロレス中継の老舗、日本テレビが全面支援した馬場の全日本プロレスも集客では苦戦。(日本プロレスが翌73年4月に興行活動停止し男子3団体となる)

そんな中、「プロレスの東スポ」を売りにし、63年11月にケネディ大統領が暗殺された時も一面が「ブラッシー血ダルマ!」だったとされる世捨て感に満ちあふれ、創刊当初はスポーツ毎夕を初め戦後雨後の竹の子の如く創刊された「庶民の娯楽」夕刊スポーツ紙の群雄割拠の時代を生き残って来た東スポにも経営危機が訪れていました。

井上博社長は会社を右翼の大物で後にロッキード事件の重要人物となる児玉譽志雄に買ってもらいました。いわゆる「身売り」です。

東スポが芸能記事で飛ばしや根拠なきガセを連発してもお咎めが一切ないのは、媒体そのものに信憑性が薄いから風評被害が少なく、大勢に影響ないのもさることながら、バックに右翼がついており、面倒な関わりを避けたいのが実状ではなかったかと思います。

「まあ、いいか、東スポだからな」

でほとんど収まってしまう訳です。

児玉氏が亡くなった後は児玉の秘書をしていた太刀川恒夫がオーナーになり、現在もそうなっています。

そんな東スポでしたが、桜井さんをワールドプロレスリングの解説者をするよう命じたのは井上社長でした。

「会社の宣伝になる、やれ!」

さらに74年3月末にTBSの放送を打ちきられ、経営危機に直面した国際プロレスは9月から吉原功社長の早稲田大学レスリング部先輩にあたる東京12チャンネル運動部長だった白石剛達のつながりから同局でのレギュラー放送が開始され、破綻を逃れました。

井上社長は東京12チャンネルの解説者にも門馬忠雄を送り込み、「プロレス3団体の中継番組の解説者は全て東スポ」という構図が出来上がりました。

プロレス冬の時代から人気が再燃してきたのは74年。その口火を切った出来事は…。

2月13日、早稲田の喫茶店「ルナ」で記者会見を行った国際プロレスのストロング小林は、国際プロレスを退団しフリーになったことを発表。

馬場と猪木の両方に挑戦状を叩きつけました。
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