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2019年11月29日22:22

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イベリア半島の宗教と民族の対立、そして文化の融合

イベリア半島における文明の拮抗と融合について、文芸大の授業「国際文化入門C」の第7回,8回で学んだ。
この聴講を通じて疑問に思った事が2つあった。
それについて、自分なりに調べたところを書いておきたい。

【1】「レコンキスタ」(国土回復運動)は、イスラームによるイベリア半島支配からキリスト教国を取り戻そうとした718〜1492年、800年弱の期間の活動を指す。
つまり、イスラーム放逐のための長い歴史であった筈だが、それが完遂された1492年(グラナダ陥落)に、スペイン王国が待ちかねたように発令したのは「ユダヤ人追放令」だった。
これはどういう事だろうか?

【2】征服者は、それ以前の文化的・歴史的文物を、痕跡が見えない程根絶やしにしてきた例が多いが、中世のイベリア半島では、キリスト教世界とイスラーム世界の間で、そうした一方的な破壊は起こらず、両文化の融合を示すものが多々残っている。
これは一体何故だろうか?

歴史をあまり短い時間で切り取って評価しようとすると、必ず勘違いが起る。
少しスパーンを長く取って、俯瞰してみる事にする。

・・・・・・

411 ゲルマン人(キリスト教勢力の一員)の移住、イベリア半島に及ぶ。
415 同、西ゴート王国を建国。

711 イスラーム勢力(ウマイヤ朝)、ジブラルタル海峡を渡り、西ゴート王国を滅ぼして、イベリア半島北部を除き広く支配。

イスラーム勢力は西ゴートによる被支配民から解放者として迎えられた。
ウマイヤ朝は寛容政策をとり、キリスト教徒もユダヤ人も、地租・人頭税を治めれば信仰と固有の法、財産の保持を認めた。
結果、イスラーム、キリスト教徒、ユダヤ教徒の多くは平和裏に共存した。
イスラーム支配下で、その文化とアラビア語に順応してもキリスト教信仰を持ち続けた人々は「モサラベ」と呼ばれた。

718 元西ゴート王国貴族を自称する者が、残存キリスト教徒を率いて蜂起、イベリア半島北部にアストゥリアス王国を建国。
これを「レコンキスタ」(国土回復運動)の開始の年と考える。(1031〜とする説もあり。)

756 イベリア半島支配のイスラーム、後ウマイヤ朝へ。コルドバ遷都。
929 後ウマイヤ朝のアッラフマーン3世、カリフを名のる。
コルドバ、トレドは、学問、文芸の中心地となり、ヨーロッパ・キリスト教国からも学びに来た。
1031 後ウマイヤ朝、内紛により終焉。ターイファ(太守)による分立状態へ。
イベリア半島北部のキリスト教勢力、この機にレコンキスタを積極化。イスラーム支配地漸減。

1085 カスティーリャ王国、トレドを奪還。
イベリア半島のイスラームは、モロッコで急速に勢力を拡大していたムラービト朝に支援要請。
1086 ムラービト朝、ジブラルタルを越えて侵攻、カスティーリャを打倒。半島南部はまたイスラーム支配下に。
ムラービト朝は非寛容政策。対抗心からもレコンキスタに火が点く。
1094 カスティーリャ王国エル=シドの活躍で、バレンシアを奪回。

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(関連する外部での出来事)

1095 セルジューク朝トルコに東ローマ帝国領を一部侵された皇帝アレクシオス1世が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援依頼。
教皇はクレルモン公会議で、エルサレム奪回を呼びかけ。
1096 第1回十字軍派兵(〜1099)。

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1147 北アフリカでムワッヒド朝がムラービト朝を打倒。
1160〜72 混乱していたイベリア半島のイスラームの要請を受け、ムワッヒド朝、イベリア半島侵入。南部を再び占領。
1195 ムワッヒド朝、カスティーリャ王国に大勝、更にトレドを攻撃。
トレド司教等はローマ教皇インノケンティウス3世に働きかけ。
教皇は、カスティーリャ、ナバラ、アラゴン、ポルトガル、フランス等のキリスト教国にイベリア半島への「十字軍」を呼びかける。

1212 ムワッヒド朝と、カスティーリャ王国を中心にしたキリスト教軍の戦いで、キリスト教軍大勝。ムワッヒド朝衰亡。
レコンキスタの潮目が変わる。
1231 カスティーリャ、コルドバ奪回。
1248 同、セビリア奪回。
1249 イベリア半島のイスラームはグラナダ王国のみとなる。

1479 カスティーリャ王国、アラゴン王国が合体しスペイン王国成立。
1492 スペイン王国、イスラム勢力最後の砦グラナダを奪回。
レコンキスタ完成。

1492年の戦いの終戦協約は寛容なもので、イスラームは政治権力は引き渡すが、信教・衣装・習俗・言語を守りイベリア半島に住む事は許されていた。

1492 スペイン王国、ユダヤ人追放令。
1497 ポルトガル王国もユダヤ人追放令。

◇ユダヤ人追放令の背景;

711年以降のイベリア半島支配者となったイスラーム(ウマイヤ朝〜後ウマイヤ朝)はユダヤ人に寛大だった。
コルドバ他の都市で、ユダヤ人は経済力を持ち、知識人としても重要な位置づけになった。シナゴーグ(ユダヤ教会堂)を建てる事も許されていた。

1086年以降に半島を支配したムラービト朝は、異教徒であるユダヤ教徒・キリスト教徒を迫害。
コルドバのユダヤ人は、キリスト教支配下のトレドに移動する。
トレドでも、ユダヤ人は経済・文化で一大社会勢力となった。これを快く思わないキリスト教徒は多かった。

1215 教皇インノケンティウス3世、第4回ラテラノ公会議招集。
ユダヤ人の衣服に黄色の識別徽章を付けさせる事とし、キリスト教徒に対する高利貸しを禁止、公職から追放、ギルドからの締め出し等を決定、反ユダヤ主義を推し進めた。

1348,62,75,83 ペスト大流行。
その原因がユダヤ人にあるとの妄信が拡がる。

1391 (キリスト教勢力がイベリア半島で優勢になっていた時代)セビリアで反ユダヤ暴動がおき、イベリア半島各地に拡大。ユダヤ人は掠奪・虐殺に遭った。
ユダヤ人は国外脱出、またはキリスト教に改宗した(彼等を「コンベルソ」と呼ぶ)。

コンベルソは10〜15万人の規模となり、従来からのキリスト教徒とは区別され、「新キリスト教徒」とも言われた。
レコンキスタの攻防が進む中で、キリスト教徒はイスラームだけでなく、異教徒全体に敵愾心を持ち、寛容性を失って狭量になっていった。ユダヤ教徒も敵視するようになった。

しかし、コンベルソ達は生き残りのため、教会や宮廷の中で巧みに働き、上流社会との結びつきを強くする者も多々いた。イサベル女王の周辺にもこうした改宗者が多数いた。

1478 イサベル女王、ローマ教皇に嘆願書。シクストゥス4世、これに応え、初めてセビリアに異端審問所設置を許可。

異端審問所の目的は、イスラームやユダヤ教徒の取り締まりではなく、新キリスト教徒(コンベルソ)の中に潜む背信者を炙り出す事だった。
一般市民からのタレコミも多々あったが、改宗してキリスト教を信奉するようになったユダヤ人達は、改宗を装っただけのユダヤ人(「マラーノ」と呼ぶ)の内部告発を熱心に行った。そうする事が自分の命を守る事になると彼等は考えたのである。奇妙な構図だ。
1481 異端審問所の裁判で初めて6人のマラーノが火刑となる。

1492年のユダヤ人追放令の背景にはこうした動きがあったのである。


◇1492年のユダヤ人追放令の内容;

全てのユダヤ人はキリスト教に改宗して洗礼を受けるか、4ヶ月以内に国外退去せよとの勅命。
イベリア半島から逃亡したユダヤ人は15〜20万人といわれる。(10万人未満だったとの説もあり。)
スペインはキリスト教国家というべき性格が固まっていった。

〜〜〜〜〜〜
(レコンキスタ以後)

イベリア半島のキリスト教の、他宗教を認めない、謂わば純血性志向の強化は、1492年後もグラナダに残ったイスラーム(「ムデーハル」と呼ばれた)に対する迫害ともなった。

1499〜1501 グラナダのイスラームの反乱。
イスラームはこの迫害を1492年の終戦協定違反として反発、反乱を起こした。

1502 イスラーム追放令。
スペイン当局は、この反乱を押さえるべく、遂に終戦協定を反故にし、イスラーム追放令を出すに至った。
改宗か追放という命令に、移住は子供を置いていくのが条件だったため、イスラームの多くはキリスト教に改宗(「モリスコ」と呼ぶ)、また、北アフリカへ逃げ延びた。
モリスコの中には表面上の改宗者が多く、その後も、スペインは様々な抑圧策をかけて潰しにかかる。

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(更にその後)

1506 サン・ピエトロ大聖堂建築のための贖宥状(免罪符)発行開始。
1517 ルターによる宗教改革開始。

16世紀のスペイン異端審問所は、イスラーム、ユダヤ教徒に加え、同民族のプロテスタントをもその対象としていく事となる。

・・・・・・

【1】について
上で分かるように、ヨーロッパのキリスト教世界におけるユダヤ人差別は、非常に歴史が長く、底が深い。
1492年の直近だけ見てしまうと、レコンキスタ→ユダヤ人追放令の流れが何だか訳の分からないものになってしまう。

【2】について
中世のイスラーム勢力も全てが寛容という訳ではないが、上に記述した歴史を振り返れば、キリスト教世界の方が、十字軍やレコンキスタを通し、だんだん非寛容で狭量、且つ一方的になっていくのが分かる。

それでも、(施政者や権力者でなく)イベリア半島に住む人々は、イスラームの影響を受けて独自の文化を発展させ、現代に至る迄それが生きている。
メスキータやアルハンブラ宮殿という建築物だけを見るのでなく、もう少し幅広く眺めると。
例えば、水が少なく気温の高い土地での見事な灌漑事業、もたらされたコメやサトウキビ、医学や数学、自然科学、音楽や文学のなかにもイスラームの痕跡が多々見られる。スペイン語、ポルトガル語の中にもアラビア語の名残がたくさん入っている。
このように、イベリア半島に暮らしてきた人々が、両文化を取り入れ、融合させ、自分達の生活を作り上げてきたと言えるだろう。
生活の領域に迄到達した文化というものは、一方的な圧力で簡単に壊滅してしまうという事はないのではなかろうか。
 

〈参考資料〉
『世界史リブレット58 ヨーロッパとイスラーム世界』
執筆 高山博
発行 2007年、山川出版社
 
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