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2019年11月28日12:41

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受け身の指導者たち 承久の乱後の京、鎌倉のリーダー

 鎌倉時代中期に起きた承久の乱は、その後の歴史を大きく転換させる出来事になった。乱ののち、朝廷の威信は失墜し、畿内の治安維持もままならなくなっていったからである。逆に鎌倉幕府は、それまでの東国政権という性格から、西国にまで影響力を行使する全国政権に脱皮を遂げることになった。「武士の世」はここから始まったといっていい。


 後鳥羽上皇が京都守護(幕府の出先機関、六波羅探題の前身)を勢力下に置き、北条義時追討の院宣を発したことによって戦乱へと展開していく。『吾妻鏡』では、北条政子が頼朝の恩顧を訴え、これに御家人が呼応したという有名な場面が描かれているけれども、実際は幕府首脳も大いに動揺していた。そのため後鳥羽上皇に名指しされた義時は、幕府創業を支えた老臣たちにも諮り、彼らの積極策を聞いてこれを採用する。
 朝廷側が楽観的な見通しに終始していたのに対して、京に攻め上ることを決めた幕府側に勢いを見て取った御家人たちは、こぞって鎌倉に味方をし、その後は戦乱と呼べないほどの幕府側の完勝に終わった。

 ここで注目して欲しいのは、幕府側の当事者ともいえる北条義時が、受け身であったということである。そもそも彼は後鳥羽上皇から名指しで追討されており、最初から京に打って出ようとか、朝廷を討とうとかいった強硬策を唱えているわけではない。先に幕府首脳が動揺したと書いたけれども、その第一は義時その人でもあった。


 承久の乱が幕府方の勝利に終わり、戦後処理を行うに当たって、朝廷の指導者の一人として選ばれたのは、九条道家だった。これまで院政を布いていた後鳥羽上皇はじめ、その子息たちは地方に流され、側近たちも死罪や流罪に処されたため、残ったのは親幕派の西園寺公経と、子息を鎌倉に送っていた道家ら以外になかったからである。

 ここでも道家は進んで朝廷を指導しようとしていたわけではなく、受け身の姿勢が目立つ。別になりたくてなったわけではない道家はしかし、その後の二十年間、朝廷の第一人者として君臨していくことになる。


 このように、承久の乱を経て、京と鎌倉それぞれに受け身の政治家が指導者として立つことになった。彼らは進んで覇権を確立しようとしたわけではない。ほかにやる人がいないから、敢えてその地位に就いたのである。そこには大きなリスクもあった。
 義時の場合は、朝廷と対峙して敗軍の将になる可能性はもちろん、それに乗じて御家人たちが反乱を企てる懸念もあった。九条道家も、ガタガタになった朝廷の再建だけでなく、そこに幕府の横やりを常に意識しなければいけなかった。

 ところが両者とも、その受け身の姿勢にもかかわらず、長期政権を維持することができた。道家の場合は、次第に幕府との関係が悪化した結果、晩年にその地位を追われることになるものの、戦乱からの二十年という時間は決して短くはない。


 一般的に指導者というものは、強いリーダーシップを持ち、積極的な姿勢がとかく評価されがちである。しかし、古今東西の歴史を眺めてみると、そうした人物は暴君や独裁者と紙一重であって、短期的には強力なリーダーとなり得ても、長続きしない。反逆や暗殺、失脚に遭うことが少なくない。
 逆に受け身の指導者というのは、変化の著しい時代には、不向きであり、害悪ですらあると捉えられている。しかし、義時や道家の生きた時代は、日本史を見渡しても大きな過渡期のひとつであったことは疑いない。受け身であっても、受け身であったからこそ、その変化を受け入れ、時代に合わせた体制づくりが可能だったのではないか。

 もちろん、ここでいう受け身は、単になるがままに任せ、自らの責任を放棄するような姿勢ではない。彼らは変化というリスクをも受け入れるという意味での受け身であった。死や失脚と背中合わせにありながら、次々と起こる事態に頭を抱えつつ、それでも状況の改善に努めたことこそが、後世において偉大さと捉えられることになったのだろう。
 格好のよさ、理想の姿とは異なる、人を率いるということの難しさと苦み。彼らの背中からは、そのようなやるせない思いも感じる。
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