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2015年11月30日15:13

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100分de名著『実存主義とは何か』(サルトル)/海老坂武

NHK-Eテレ、今月の〈100分de名著〉は、ジャン=ポール・サルトル(1905 -80)の著書『実存主義とは何か』(1945)。
解説はフランス文学者の海老坂武。

第1回(11/ 4放送) 「実存は本質に先立つ」
第2回(11/11放送) 「人間は自由の刑に処せられている」
第3回(11/18放送) 「地獄とは他人のことだ」
第4回(11/25放送) 「希望の中で生きよ」

(ここで改めて実存主義の解説をしようと思っている訳ではない。)

サルトルは今や忘れ去られた過去の哲学者だろうか?
パリで同時多発テロが起きた。民族的・宗教的憎悪がかつてない程膨らんで、トルコ・シリアの国境でなくても、世界各地で暴発の危険に瀕している。
無差別殺人であるテロは忌むべきものだが、急増するシリア空爆は、病院等の施設を含め、多くの民間人をも殺戮している。
空爆はまた更に憎悪を拡大せしめ、新たなテロの理由作りになるばかりだ。
我々には、テロリストと呼ばれる人達の実態が見えない、内実の声が聞こえてこない。
何故多くの人々(そこには欧米国籍の若者達もたくさんいる)が、ある日国を飛び出し、ISの下へ走るのか。
真の解決の糸口は何処にあるのだろうか。

混迷の深まる今、第2次大戦直後、既存の価値感がガラガラと音を立てて崩れ去った時代に、「時代の観察者」でなく「時代の対話者」として、また「行動する哲学者」「闘う知識人」として生き、果敢に自らの主張を発信、態度表明を続けたサルトルの思想は、21世紀の我々の指針になるのではないか。

1966年来日時、日比谷公会堂での講演、2,000人の定員に30,000人もの応募があった。
サルトル全集は日本で300万部以上のベストセラーとなった。
日本だけでなく、第2次大戦後の世界には、どういう方向で生きていったらよいかその道を見失った人々が大勢いた。
そんな中で、人間は自由である。困難でも、自分で自分の道を選ばなくてはいけないというサルトルのメッセージは、多くの人々に光となった。

サルトルの言う「アンガジュマン」は、単なる社会参加ではない。
作家というものは既に時代の中に巻き込まれている。
何をしても、例えば、沈黙でさえも意味を持ってしまう。
しゃべらないという事は、大きな声でしゃべった人間の意見に委ねたという事になるだろう。
逃れる事ができないのなら、現実や問題を意志を以って引き受け、時代に対して明確に発言する事を選択しよう。
人生は生まれた時に決められているのではない。人間は根源的に自由な存在である。自分の人生をどう作っていくかは、自分の責任において自由である。
サルトルは、「人間は主体的に自らを生きる投企(project)なのである」と言った。
“投企(project)”とは、前に(未来に)向かって(企てに向かって)、自分という存在を投げ入れる事である。それによってこそ人間は自分の人生を作っていく事ができる。
海老坂武は言った、これは今の時代の中でどうやって生きるかの態度表明とも言える。
今の日本においてどういう問題が起こっているか、例えば原発の問題、安保法案の問題、憲法改正の問題も近い将来に出てくる。
その時にあなたはどういう態度を取るのか。その態度表明がアンガジュマンだ。

サルトルの葬儀の日、パリには5万人の人々が、病院からモンパルナスの墓地迄遺体が運ばれる沿道に並び、最後の別れを告げた。
彼は常に市井の人だった。市民に愛された人だった。
しかし、彼の発言は敵を作りもした。右翼に自宅を何度も爆破された。
旗印を鮮明にすれば、そうだその通りだ言う人も、いや違うと言う人も現れるだろう。
出棺の際、葬儀屋は「家族の方は前に出て下さい」と声を掛けた。すると、群集の中の1女性が「私達皆が家族です」と叫んだ。
サルトルは、決められた立場や国、民族、主義主張という鎧を一旦脱ぎ、素っ裸の1人間として自分を見直すところから始め、その自由と孤独と不安から、他者、社会との連携を模索していった。
素っ裸の人間は根源的に平等である。そこに人間同士の共感が生まれた。
1女性の声は、そうした共感に根差していたのだろう。

では、現代の格差社会ではどうだろうか。
日本でも子供の6人に1人は貧困家庭だそうだ。学校にも行けない子等は、株価の上下に狂喜する人々、大企業の利益確保の政策ばかりを優先する政府のあり方を見て、どう思っているだろうか。
西側先進国は自由主義、民主主義を標榜しながら、他方で、人間の抑圧と疎外がこれ程進行した時代もあるまい。
世界では、毎日何万もの人が餓死し、何百万もの人々が家もなく行き場もなく、路上に、または避難キャンプに暮らしている。
“人生は生まれた時に決められているのではない。人間は根源的に自由な存在である。自分の人生をどう作っていくかは、自分の責任において自由である。”…こうした言葉は、今、餓死を待つだけの子供を持った家の人々には、どう響くだろうか。
受け容れを拒む国境を目の前にした難民達の耳にはどう聞こえるだろうか。

我々はどうしたら連携できるだろうか。「家族」は既に幻想なのか。
サルトルが生きていたら、この時代に、何と発言し、どう行動するだろう。

最晩年のサルトルは失明して執筆を断念。それでも彼は言った、
「世界は醜く、不正で、希望がないように見える。といったことが、こうした世界の中で死のうとしている老人の静かな絶望だ。だがまさしく、私はこれに抵抗し、自分ではわかっているのだが、希望の中で死んでいく。ただ、この希望、これを作り出さなねばならない」と。
この言葉を語った2週間後にサルトルは死んだ。
死の間際迄、社会と向き合い、自ら発言し、希望を見出す事を考えていた。

人間は将来への希望ナシに生きていけない。
人は、どんな暗い時代でも、生きていかなければならない、生きていく以上希望は必要だ、希望をつくり出さなければならない。
しかし、他人を巻き込んで自爆しようとする若者に、どんな希望を示せるだろうか。

人間の運命は人間の手中にある。
何も発言せず傍観主義者として生きるのか、己(自分・自国・自民族)の利潤のみ追求し続けるのか、弱肉強食は自然の理だとするのか、何れにしても、人間の運命は人間の手中にある。
 
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